従軍経験があり、昭和の歴代総理大臣の中で最後の存命者であった中曽根元首相が101歳で逝去しました。激動の戦後政治をつぶさに見てきた歴史の証人が最後に見た日本の姿はどのように映ったのでしょうか。高杉晋作の辞世の句は心に残ります。死に直面したとき人は人生の収支を考えるのかもしれません。人生の収支は良し悪しの総和ではなく面白いか面白くないかの総和だと思います。人が最晩年に後悔するのは自分らしく生きなかったことであり、人生に悔いを残さないためには自分の気持ちに素直に生きる必要があります。収支には会計期間がありますが、人生の収支は今この瞬間の気持ちが全てだと思います。人生最後の日が近づいているならスティーブ・ジョブズのように、この世でやり残したことは何かを考えます。人生最後の瞬間に今が最高と思える老年的超越は理想の人生です。
楽をすると早く死ぬは嘘?
相関を因果と取り違える過ちを人は犯します。会社の仕事などで楽をしている人は早く死ぬと言われていて、自分の実感とも一致するので長年この経験則を信じていました。先日、早く死ぬ人はもともと虚弱体質だから仕事も手を抜かないといけないと指摘されて考え方を改めました。手抜きをしている人を見ると腹が立ちましたが見方が変わると全く違った景色が見えてきます。マスコミは因果であるかのように相関を語り世論を誘導します。一方逆も真なりで、長寿を全うした人のなかにはもともと虚弱体質だった人が多く、鍛えているうちに体が強くなることもあります。原因に見えたことが実は結果で因果が入れ替わることはしばしば起こります。運動は健康に良いと信じられていますが、相関関係は証明できても因果を示すことはおそらく不可能です。健康な人ほど運動に取り組む活力があると考える可能性をわれわれは見落としています。医療が発達しても不健康が蔓延するのは、西洋医学が単一の原因かつ因果関係が明確な急性期の外傷や疾病にしか対処できないからだと思います。
開運の法則
昨日は傘を持たずに外出し出先から濡れて帰りました。雨の多い日本では頻繁に傘の出番となりますが、海外では傘をささない人は珍しくありません。傘がないと視界が開け雨の日でも傘の閉所感から開放されて明るくなり、自然を直接感じる機会を与えてくれます。スーツを着ることはないので多少不快だとしても夏場に汗をかいて着替えることを考えれば濡れても問題はありません。全てのものは相対的な存在であり絶対に必要なものなど世の中には存在しません。われわれを悩ますものは思い込みであり、視点が変わるとあらゆるものが不要になります。人生に必要なのは嫌なことと人にやらされることを最小化することだと思いますが、思い込みはこの両者で人を苦しめます。好きなことを基準にキャリア形成をした方が生き残れる可能性が高くなると学生に話すのは半ば無責任で半ば本気で、好きなことを必死になってやれば運命は開けます。その法則に気づいたのは残念ながら比較的最近のことです。
7時間睡眠の嘘
もう何年も目覚まし時計は使ったことがなく、遅れることができない日は念のため目覚まし時計をかけますが頼ったことはありません。22時前後には寝て朝は3、4時に起きる5、6時間睡眠のサイクルは正確で、疲れた日や糖質を摂ると睡眠時間は伸びます。7時間睡眠が一番長生きといった主張は誤解を招く統計データの嘘だと思います。自分が知る百寿者は短眠の人か平均より長く眠る人で、睡眠時間は個性的でかつ状況により変化します。睡眠時のノンレム・レムの1周期は90分前後とされ、最初のノンレムでの眠りの深さであるStage3とStage4と言われる徐波睡眠が重要であり時間の長短は気にする必要がないと思います。原始の昔から続くサーカディアンリズムに沿って日の出前に起き、朝の光を浴びてからおよそ15時間前後に始まるメラトニン分泌の時間をリセットすることも重要とされます。早起きをするとメラトニン分泌が早まり、体のメンテナンスを行う成長ホルモン分泌がピークを迎える時間帯と、最初のノンレム睡眠が重なることで短時間でも疲労が取れると思います。
たくさん試す人生
人間は一日に数万単位の意思決定をしているとされます。黄色の信号でブレーキを踏むべきかアクセルを踏むべきかといった一見小さな意思決定でもときには重大な結果をもたらします。人間関係に関する判断は難しく、今相手に伝えるべきか一日頭を冷やしてから言うべきか悩んだりします。昔は言ってしまってから後悔しましたが、人生の全ての出来事は最善かつ必然と考える「最善観」を持つと、どちらでも良くてその結果を受け入れ楽しむようになります。日経新聞の私の履歴書に多い文章表現は「たまたま」「偶然」「思いがけず」だそうで、多くの成功者は運を引き寄せています。「計画された偶発性理論」では好奇心や柔軟性が重要とされ、企業経営者が一般にサイエンスよりアートを重視する傾向が強いことと似ていると思います。昔は熟慮が良いとされましたが、一方で大和銀行ニューヨーク事件のように不作為が取締役への巨額賠償につながったケースもあります。最初の転職もサラリーマンを辞めた時も旅館を買った判断も後先を考えない軽はずみな行動ですが、面白そうかどうかという好奇心を基準にたくさん試して早く前に進む方が、行動を起こさないよりは人生を楽しめると思います。
グルメは食べない?
自分で行く数少ない外食店に業績好調のスシローがあります。ファミレスのような雰囲気と安っぽい食器さえ気にしなければ値段を気にせず食べられるのは魅力的です。高級な寿司の名店で食べ過ぎの体にさらに食べ物を詰め込むことと、100円の寿司を空腹で食べることは等価値だと思います。消費者の認識こそが実態であるとする知覚品質(Perceived Quality)のPerceiveには五感で掴むというニュアンスがあります。何を食べるかという外部刺激よりも、どう食べるかという内部反応のほうが知覚品質においてはより重要なはずですが、社会の評価を基準に生きる人は美味しいと思い込むために外部刺激を求めます。今の日本に豊かさを感じられないのは皮肉なことに社会が豊かになったからだと思います。週に1日断食をする理由は、人体の細胞分裂回数を決めるテロメアの反復配列を伸長させる酵素テロメラーゼをサーチュイン遺伝子が分泌するのが空腹時だからです。断食明けの食事は何を食べても美味しく空腹は幸福感を呼び寄せます。グルメとは人生であと何度食事ができるか考える人ではなく、食べることを最小化することで繊細な五感を磨く人だと思います。
効能は欲望が消えること
昨日行った那須湯本温泉の滝の湯は、商業施設の鹿の湯とは異なり組合員が使うよりスパルタンな共同浴場です。手荒れなどに効能がありますが、豪華さとは無縁の浴槽に身を沈めると心が平安を取り戻し欲が消えていくことが最大の効能だと思います。古いマーケティングの定義は「生産者が消費者の購買意欲を刺激する一方的な市場操作」とされやがて両者の相互理解へと変遷します。しかし、これは学問上の定義であって現代社会は一方的な市場操作なしに成立しません。もっとも有害で深刻な市場操作は食欲に関するものだと思います。精製度が高い小麦は糖質摂取による血糖の急激な上昇が陶酔感をもたらし食欲の衝動をコントロールできなくなります。糖質制限によりカロリー摂取量が3割程度減るという研究がありますが、それは食欲が減退するからで無理なく贅肉を落とせます。生物が脳を獲得したのはこの5億年ほどとされ、生物は進化の歴史の8割から9割を脳のない状態で過ごしています。最大のエネルギー消費臓器である脳は他の臓器とは別物で自らの欲求だけを満たすために人を中毒にさせます。養生訓は欲に溺れず万事少な目を心がけることを繰り返し説きますが、現代人は人間本来の欲望ではなく押し付けられた欲望で生産者の奴隷にされていると思います。
欲しいものリストを伸ばしただけ
昨日から甲子高原に来ました。玄関にある、昭和40年代から50年もの間働いてきた手巻きの柱時計は、しばらく来なくても律儀に時を刻み続けます。那須湯本温泉の鹿の湯に昨日も寄りました。高温浴槽に身を沈めると頭の上を冷たい外気が抜ける浴場の風情は東北の秘湯そのものです。湯船で至福の時を過ごすとき本音の自分に出会います。この温泉とブナ原生林を抜ける阿武隈川の清流があれば、それ以外の贅沢を一生放棄しても多分悔いが残りません。人はどこかで贅沢の本質を見失い、社会もあえてその履き違えを訂正しませんでした。多忙で空虚な現代を救うのは無為であり、自分を高揚させエネルギーを高める場所は山や森のなかです。今この瞬間に起きていることが人生の全てであり、未来が今より良くなるのを待つ必要も、金持ちになる必要も、自分の有能さを証明する必要もないと思います。幸福は金や名声や肩書で得られるものではなく、自身の内面が解釈するものです。20世紀を通じてもたらされた豊かさは満足感ではなく期待値だけを増幅し、はかない執着と欲しいものリストを伸ばしただけかもしれません。
70年代に戻りたい
日本工学院に行く木曜日は車を使いますが自動車通勤にはいくつかのメリットがあります。密閉された個室での移動時間は一種の瞑想になりますし、移り変わる景色が刺激になりアイデアが出やすくなり、運転が好きなら移動そのものを楽しめ自己肯定感も高まります。目下の悩みは愛着の対象になるような欲しい車がないことです。マニュアルトランスミッションであることを選択の条件にすると、もはや選択肢は輸入車とマツダ車の一部と軽トラックぐらいになってしまいます。マニュアルトランスミッションを捨てた日本車メーカーが見落としていたのは、安楽と楽しさは同居できないことだと思います。加速も燃費もオートマチックが優れているにしても、テクノロジーを優先して運転から人間を追い出したときから自動運転に至る車終焉の歴史は運命づけられたと思います。1968年に東名高速が開通し日本が本格的なモータリゼーションの時代に入った1970年前後の自動車こそが欲求の対象で、相手が最新のフェラーリやマクラーレンだとしてもスマホゲームのような運転感覚に楽しさも豊かさも感じることはできません。貧しかったからこそ欲求が増幅されるのであって欠乏なき豊かさは成立しないと思います。
野蛮な暴挙を無視する政治
ジョージ・オーウェルの小説『1984年』が描いた近未来世界の恐怖を実現したような中国の恐ろしさは数日滞在しただけでも感じます。5月に深セン市に滞在した後香港に入国したときはほっとしました。今その香港での抗議活動が中国政府の意を受けた香港警察により弾圧されています。西側世界と縁の深い香港は世界の注目を集めるだけ救いがありますが凄惨なチベット弾圧は長年見捨てられてきました。暴力と憎悪の闘争哲学を信奉する毛沢東率いる共産党は人民の怒りを利用して既存権力を破壊してきました。暴力の肯定で神経が麻痺していく時代の空気は二・二六事件など戦前の日本にもあったと思いますが、人間のDNAのなかには暴力の支配に陶酔する残虐さがあると思います。暴力が横行する諸悪の根源は専制政治であり、人民解放軍は支配階級の権力擁護のための暴力装置として機能します。日本共産党でさえ香港での弾圧の即時中止を求める声明を出しているのに、民主派議員を逮捕し大学構内への突入で実弾発砲する言語道断の野蛮な暴挙を無視する日本の政治こそが平和ボケの象徴でしょう。