「さようなら」ではなく


パセリについて書くのは最後にします。涙が止まらなくなることが減り、書く事が感情を整理する役割を終えつつあるのだと思います。旅立つ直前に歩いた長野県の森に来ました。どこまでも歩けた散歩も年を追うごとに短くなりましたが、パセリは都会より生き生きとしていました。12年は人生にとっても長い時間です。とくに2014年から2026年はその転換期にあり、2016年に会社を辞めたのはパセリが来たからだと思います。自己理解が進み本音で行動した結果だと思うのです。共に過ごした12年は最も自然体で、自分らしく生きられた時代です。いつもパセリが隣にいたから、内面にあった本心を安心して表に出せたのかもしれません。パセリがそうだったように、いつもご機嫌で、群れ(家族)を大切にし、自分に嘘をつかず、本心で生きて行きたいのです。うまく表現できませんが、伝えたいのは「ありがとう」でも「さようなら」でもない気がします。

そこに居てくれるだけで


パセリとの別れを書くのは、ペットロスを超えて、「人は何によって支えられるのか」という人生の普遍的なテーマに行き着く予感があるからです。パセリは不思議な子で、共に暮らし始めた2歳の頃から、14歳で亡くなるまでほとんど顔が老けませんでした。いつも部屋の片隅にうずくまる愛らしい存在と、気持ちの良い毛を撫でる習慣は日常の喜びでした。パセリは私たち家族だけを特別扱いしたわけではなく、誰に対してもフレンドリーでした。犬にも感情はありますが、パセリの場合それは喜びと愛情表現だけでした。表面的で条件付きの人間関係に疲れていた自分にとって、パセリの存在は自分を偽る必要のない心を許せる関係でした。それが一方的なものであれ、自然体でいることができます。人間は相手に理解を求めますが、犬はそこに居てくれるだけで十分なのです。

二人でいることの自由


パセリの写真の多くは山で撮られたものです。連れて行かれたパセリの気持ちは分かりません。12歳とされるラブラドールの寿命より2年長く生き、直前まで元気だったことを考えると健康的な習慣だったと思います。晩年のため上位入賞はしませんでしたが、白馬で人と犬のトレラン大会に出たことも良い思い出です。山にいる時のパセリは、本来の犬の姿に戻っていたと感じます。街ではリードにつながれ、窮屈な人間社会のルールに合わせることを強いられますが、森の中を歩く時パセリはいつも笑っていて、都会よりも歩くスピードが上がります。身体の記憶が蘇り、犬らしく自然に振る舞える場所が山であり、森だったはずです。山を駆け降りるとき、影のように寄り添い普段は見せない速さで俊敏に動く姿は、人との協働作業に喜びを感じるラブラドールならではかもしれません。われわれの間には二人でいることの自由があった気がします。

思い出を今につなぐ


パセリのことを書き続けるのは、共に歩いた物語をまだ続けたいという意識があるのだと思います。他方で、人生は未来に向かい前進することが健康に生きる秘訣のはずです。過去に住み続けることと過去を十分に整理することは異なり、パセリを依存の対象にはしたくありません。心に開いた穴を埋めるのは替わりの犬を迎えることより、新しい人生を始めることだと思います。パセリと早朝に訪れていた近所の神社に行くと、鳥居の裏にウラジロガシの大木があることに気づきました。以前ならパセリをつなぐために下ばかり見ていたので気づかなかったのです。共に過ごした時間の価値が大きいからこそ、今までとは違う世界の見え方が新鮮です。パセリと過ごした日々を過去として閉じたくありません。隣にパセリはいないけれど、何気ない日常の思い出を今につなぐことで、これからも一緒に歩いていける気がします。

生きる意味


パセリを失って10日が過ぎ、過去を引きずらず前を向きたい自分と、パセリが居た意味を整理したい自分がいます。一頭の愛する犬を失った衝撃を超えて、人生の一つの時代の終わりを象徴している気がします。パセリがやって来た2年後、人に評価される人生より、自分が納得できる人生を選ぼうと、会社組織を離れました。人生の後悔はやったことではなく、やらなかったことに向けられます。子供の頃から国立公園に温泉旅館を持つという夢があり、空を見上げることもできない都心の住宅街から脱出したいという願望があり、山に入り運動ができる健康的な生活をしたいという理想がありました。第二の人生は自分の本音が基盤にあり、その伴走者の喪失は、一つの時代の終わりを告げます。人生には限りがある現実を突きつけ、生きる意味を改めて考える機会を与えてくれたことは唯一の救いかもしれません。

言葉が癒す悲しみ


今になっても書き足りない気持ちがあることは不思議です。書くことはパセリに話しかけることと同じなのかもしれません。統合医療の大家アンドリュー・ワイルは、「落ち込んだ時、ゴールデン・レトリバーが真剣な眼差しで話を聞いてくれて心が救われた」と書いていました。犬は人との共同作業のために選択繁殖され、その最大の特徴は人間の意図や視線を読む能力にあります。猟師が撃った水鳥を回収するために生まれたラブラドールはその能力が強い犬種です。真っすぐ目を見て話しを聞いてくれるパセリは最高の聞き手であり、何も隠さずに向き合える存在でした。隣に座り静かに目を見つめ、評価も遮ることもしません。書くことは犬に話しかける行為と似て感情に言葉を与えます。心の奥にあるものが言葉になる過程は、かつてパセリに話しかけたように、自分自身の感情を整理できる気がします。

素の自分


写真を撮られるのが、実はあまり好きではありません。どの写真も表情が硬く、そこに写っているのは自分ではない気がするからです。しかし、例外はパセリとの自撮りです。パセリの隣にいる自分は素のままでいられて表情も自然です。パセリは自然体でいられる数少ない相手だったのだと思います。人は安全だと感じる相手の前では、自分を演じる必要がなくなります。表情筋が自然に動き、作り笑いではない笑顔になります。Facebookにもパセリとの写真が多いのは、犬好きに見られたいという対外的な欲求だけではなく、「パセリと生きている自分こそ本来の自分」という認識の現れだと思うのです。無意識に選んだ写真は、見る人へのメッセージであると同時に、自分を映す鏡でもあります。パセリは自分のアイデンティティの一部を形成し、パセリの隣にいる自分こそ、偽る必要のない素の自分だった気がします。

喪失の意味


大月に出講した足で八ヶ岳に行こうか迷いました。パセリが亡くなり1週間の今、その数日前に一緒に歩いた森に行くことには躊躇があります。パセリのいない思い出の場所は喪失感を募らせます。共に過ごした12年4カ月は平凡な日常に見えて、自分の内面に深く入り込んでいました。もう一緒に暮らすことのできない現実を受け入れるには、パセリが大好きだった森を歩くことは、避けられない過程に思えます。パセリの死を通して自分は何を大切に感じるのか、という問いに向き合うようになりました。パセリの写真を見ても涙は出ません。しかし、文章を書き始めると涙が溢れるのは、パセリは自分にとって何だったのかという意味を問うからでしょう。パセリの喪失をポジティブにとらえ未来を向くには、まだ時間がかかると思います。悲しみを抱えながら、自分が本当にやりたいことに正直に生きることが、今できる唯一の前進のような気がします。

愛情の測り方


パセリを家に迎える以前のことですが、大阪に出張したとき書店でふと手にした「盲導犬クィールの一生」という本を買いました。夜ホテルで読み始めるとなぜか涙が止まらなくなりました。そのことを思い出した時、パセリを失った痛みが人との別れ以上に辛い理由が分かった気がします。犬との間には、競争も、裏切りも、金銭欲もなく、そこに理想的な関係性を感じたのだと思います。パセリを迎えた頃の自分は、人間社会の複雑さや醜さに疲れていた時期です。偶然やってきたパセリは理想の関係を体現し、誠実さと献身を示してくれました。パセリはいい子ですから、どの家庭に行っても誠実に家族を愛し、誰かを幸せにしたはずです。人は愛情を、私をどれだけ愛してくれるかで測ろうとします。しかし、悲しみの大きさはどれだけ自分を愛してくれたかではなく、自分の人生の中でどれほど大きな意味を持っていたかだと思うのです。

思い出を重ねる場所


昨日は、「標高5,500m超の世界で、人は何を取り戻すのか?」をテーマに自宅で小さなシェアする会を開きました。年始に妻がアフリカ最高峰キリマンジャロに登り、4月に私が世界最高峰に続くエベレスト街道を歩いた旅の記録の共有です。10人がお集りいただきましたが、趣味を同じくする人との交流は楽しいもので、パセリの遺骨が戻りしんみりとしがちなタイミングでしたが、喪失から日常へ戻る役割を果たし救われた思いです。人が来て何より有難いのは、家がきれいになることです。普段はなかなか着手できない断捨離が実行でき、家が広くなったように感じます。人を招くという締め切りがあると、普段は先送りしてしまう片付けや掃除が一気に進み、人を家に招くことは自分の暮らしを整え、気持ちまで整理してくれるような気がします。家とは、住む場所である前に、人が集まり、語り合い、思い出を重ねる場所なのかもしれません。

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