夏と冬を同時に体験できる

昨日はラブラドールと西岳を経由して権現岳に向かう狼煙場まで行きました。麓では夏を思わせるトリカブトが咲き、頂上付近では霜柱が降り、水場では水溜まりが凍っています。早朝の気温は冬の風情なのに、景色は紅葉以前という不思議な感覚です。夏から一足飛びに冬に季節が移るだけではなく、急峻な山脈に恵まれる日本は、夏と冬を同時に体験できる場所になったのかもしれません。これをネガティブにとらえるのであれば暑い寒いという生理的な不満になりますが、水深1,000メートルの富山湾から標高3,000mの立山連峰までのわずかな距離に標高差4,000メートルを生む雄大な自然を、富山県がアピールするように、アドベンチャーツーリズムなどに活かす方法がありそうです。下山途中には、これから赤岳に向かうというラブラドールと会いましたが、犬との山旅も格別で、日本の山の観光ポテンシャルは過小評価されてきたと思います。

根源的な価値を思い出す冬

酷暑が終わりほっとする間もなく、今度は厳しい寒さがやってきます。冬は日照不足による鬱が増えるなど暗いイメージがありますが、他方で幸せを感じやすい季節だと思います。人類の生存を脅かしてきたのが寒さと飢えという二大脅威のため、人は寒さを嫌います。しかし、お風呂や布団に入ったときの温もりが、思わず声を上げてしまうほど心地良く、しみじみと幸せを感じます。空腹なら粗食でも有難く、暗闇なら一筋の炎に魅せられ、辛い境遇にあれば人の善意に救われるように、マイナスの境遇は幸せを感じるチャンスなのかもしれません。自然環境の厳しい北欧などの高緯度地域が、国連の世界幸福度調査上位の常連なのもそれが理由の一つでしょう。プラスをしていく付加価値生産が支配する社会にわれわれは慣れていますが、マイナスをゼロに戻す根源的な価値を思い出させてくれるのが冬なのだと思います。

炎のゆらぎを楽しむだけ

昨日は日本工学院に向かう途中で初冠雪の富士山を見ました。夏の猛暑から、秋を通り越して冬が突然来た印象です。夏に向かう季節がドーパミン、アドレナリン系の開放感なら、冬にはセロトニン、オキシトシン型のしみじみとする喜びがあります。冬を越すために、自然が様々な恵みを用意し脂肪を蓄える収穫の季節は、一年で最も豊かな時と言えるかもしれません。秋から冬に移る季節の山歩きは、もっともセロトニンが分泌すると思います。ふかふかの落ち葉を踏んで歩く晩秋のトレイルは、冬になると新雪に覆われ極上の散歩道が出現します。自然のなかで過ごすと、歩くだけで幸せになれますが、自然から遠ざかり始めた人類には、その代償に産業として生み出されたドーパミン的な消費が必要になるのだと思います。薪ストーブの炎のゆらぎを楽しむだけで満たされる時間が、都会にはない気がします。

辛い時期は成長期

10月に入り異動の季節になると配置転換や昇進、退職などの知らせが届きます。キャリア・トランジションは結婚などのライフイベントと同様に人生の転機であり、同時に成長の機会です。3度の転職はどれも自分を成長させてくれましたが、一番辛くて最も短期間で成長したのは、外資系コンサルに移った最初の転職です。ここで得たのは、苦労する時こそ最も成長するという教訓です。サラリーマン生活に終止符を打ち旅館を買って開業する時も、ストレスから5日ほど何も食べられない時期もありましたが、周囲の人に応援され助けられることの有難さが身にしみました。もう一つの転機は40代後半で肝炎になり、それを契機に減量と運動を始めたことです。災い転じて福となす、塞翁が馬、怪我の功名など、辛い時期は全て自分の成長期だという最善観を信じるようになったのはこのためです。

朝のゴールデンタイム

寝るのが早いため毎朝2時頃には起き出します。暗い時間にラブラドールと散歩をして、地下のドライエリアで虫の音を聞きながら仕事をする早朝の3時間は脳が働き、リラックスかつ集中できるゴールデンタイムです。今朝は雨ですが、街が動き始める前の澄み切ったこの数日の空は、東京とは思えない美しさで、月が輝き、人工衛星や流れ星を見ることもあります。東京で感じる自然が、最も神秘的な表情を見せる時間を大半の人は知りません。星空を見上げるだけで穏やかな気持ちになり、散歩ほどコスパのよい健康法はないと思います。消費の多くは中毒性があり身体に悪い反面、小食、睡眠、有酸素運動といった健康に良い事にはお金がかかりません。健康が幸せの基盤なら、他人の価値観に追従するような消費をしなくても幸せになれます。アリストテレスが幸福は自分次第と言ったように、考え方ひとつで全てを人生の味方にできるのでしょう。

昭和の化石

昨日は母が入院する某国立病院に行きました。何年か前に建て直され、吹抜けやカフェはあるものの、雑然として陰気な場所に感じられるのは、独立行政法人になろうが悪しき国営体質が継承されているからでしょう。アンドルー・ワイルは、未来の病院はリゾートホテルのような場所になると言いましたが、親方日の丸体質が改まらない限り、そんな時代は来ないはずです。見るからに薄情そうな医師は昭和の化石といった雰囲気で、話は専門用語で分かりにくく取り付く島もありません。自分が健康に留意するのは、人生の晩年をこのような負のオーラがうごめく場所で迎えたくないという恐怖心からです。こんなところに来るぐらいなら死んだほうがマシと思えるほどで、短時間いただけなのに寿命が半年縮む思いです。健康であることのありがたみを感じただけでもよしとすべきなのでしょうが。

離れることでしか見えないもの

生涯現役が幸せな生き方だと思うのは、働くことが中心の生活は、社会とつながり充足感を得る方法だからです。必ずしもお金を得ることは必要ではありませんが、収入があればさらに満足感が高まります。仕事には与えられた仕事と主体的な仕事があり、目的意識もなく働き始めた自分が、仕事の主体性を意識し始めたのは比較的最近のことです。仕事の本質は自己実現であり、そこに生きる意味を見出しますが、難しく考える必要はなく、要はやりたいことです。厄介なのは、仕事の主体性は仕事から離れることでしか見えないことで、それが与えられた仕事であればなおさらです。欧米の社会が長期のバカンスを必要とするのは、おそらくこのためでしょう。学びであれ、放浪の旅であれ、何もしない内省の時だとしても、人生には働くことから離れる時期が必要なのかもしれません。第二の人生をやり直せる現代人は幸せなのでしょう。

与えられた価値観

幸福には2つのタイプがあり、自然のなかで感じる幸せと、都市的な生活のなかで感じる幸せです。前者はセロトニン的な健康の幸せであり、後者はドーパミン的中毒を伴うと言い換えることもできそうです。週末に行った南会津で、河原にある大きな栗の木の下に行くと、たくさんの実が落ちており見ているだけで穏やかな、そして豊かな気持ちになるのはオキシトシン的、セロトニン的な幸せと言えます。自然豊かな田舎は多くの恵みをもたらし、主体的に何かを生み出すことができます。一方のドーパミン的幸せは専ら稼ぎ、消費することが中心の暮らしで、稼ぐことや金を使うことに目を奪われ、常に比較思考から離れることができません。消費することで得る豊かさがイリュージョンに過ぎないと感じるのは、現代的な豊かさが、あまりに多くの犠牲の上に成り立つ与えられた価値観だからでしょう。

草刈りはスポーツ?

昨日は南会津町に草刈りに行きました。高齢化する農家にとっては重労働とされる草刈りは、体幹支持エクササイズと同等以上の運動効果があるとされます。背丈よりはるかに高い河原の葦と4時間ほど格闘すると、健康づくりと言うよりも格闘技に近くなります。美しく刈り取るかを競う競技会も開かれますが、里山の環境保全につながる草刈りが今後はスポーツとして認知されるかもしれません。その後は近所の家で郷土料理のばんでえ餅(板台餅)をご馳走になりました。栃木、福島、新潟にまたがる地域に古くから伝わる郷土料理で、固く炊いたうるち米を使う粘りが少ない餅に、ネギの入った自家製の甘味噌を乗せるもので、後を引く美味しさです。東京は猛暑ですが、すでに電気の入ったこたつに座り食事をすると穏やかな気持ちになり、家庭が料理を提供するミールシェアが、インバウンド旅行者に人気なのが分かります。

人生100年時代は訪れる?

人生100年時代と言われて久しいのですが、その発端は人生100年時代構想会議にも呼ばれたリンダ・グラットンの著書、LIFE SHIFTが出版された頃からだと思います。2007年に生まれた子供の半数が106歳まで生きる、といった話が眉唾に聞こえるのは、現代の食生活があまりに貧しいからです。戦中戦後を生きた今の高齢者世代は、貧しい時代の粗食と少食が幸いして、現代医療の恩恵を受けながら長寿を享受している可能性があります。一方で戦後流入したジャンクフードや添加物、農薬で汚染された食品に加え、過食を続けてきたわれわれ世代が、今の高齢者以上に長生きすることは難しいように見えます。他方、われわれ世代の持つ最大の武器は、健康長寿に関する21世紀の知見です。オートファジーやサーチュイン遺伝子を活性化する少食と運動を実践することでのみ、人生100年時代は訪れる気がします。

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