英断か早計か

オリンピック以上に楽しみにしていた日本を縦断する山岳レースTJARが台風の接近により中止されました。基準に基づく判断とされますが難しい決断だったと思います。この背景には今年5月に中国甘粛省で起きた100kmのトレイルラン二ング大会での、トップ選手を含む21人が死亡する大惨事が影響していることは確実です。撤退判断に勇気が必要なのは当然ですが、このレースのために何年も準備し、自らの限界に挑み、可能性を追求することに全てをかけてきた選手の無念を想うと、フェイスブックに並ぶ中止判断を称賛するコメントには違和感を覚えます。厳正な選考会で選ばれた山のエキスパートであり、トップアスリート揃いであることを考慮するなら、安全第一と言った瞬間に一切のエクストリームスポーツは成立しなくなります。当事者ではありませんし、その場にいるわけではないので想像で言うしかありませんが、判断の裏には何事にも反対し批判する思考停止のポリコレが世間の空気を支配する風潮があると思います。誰もが非難を恐れてビクビク生きる社会は挑戦の芽を摘み取り、記録もイノベーションも生まれないでしょう。

遠ざけるしかない

甘いモノが無性に食べたくなることがあります。車で15分のセブンイレブンだとしても今すぐ買いに行きたい衝動に、たまに駆られます。これが不健全な欲求であることは明白で、食べたいものと食べるべきものはたいてい同じではありません。人が食欲に過剰に反応するのは脳の誤作動だけが原因ではなく、食べないと死ぬとの思い込みが強いからだと思います。個人的な経験ではよほどカロリーを消費するスポーツでもしない限り、何も食べなくても4、5日は普通に生活ができます。大半の人が葛藤することなく自由奔放に食べる理由は、生きにくい時代を生きる上で、唯一食事は欲望の規制を外し発散することが許される場だからでしょう。食べない理由が山程あったとしてもそれらが検討されることはありません。空腹がサーチュイン遺伝子を活性化し人体を生きながらえさせるように、人体はあらゆる過酷な環境を乗り越えて今日に生命をつないでいますが、人類数百万年の歴史で唯一の例外は、飽食という快適すぎる現代の環境にわれわれの身体が適応していないことです。物理的に食べ物を遠ざける以外に誘惑を断ち切る方法はないのでしょう。

自給自足的に暮らす

連休は一人で長野県にいて自炊をします。食べる回数が少ない上に、炊き込みご飯や味噌汁を多めに作り、納豆や冷奴は調理不要であとは一品作る程度なので手間もかかりません。手を抜くためによく作るのは、よもぎの天ぷらで、どこにでも生えている野草ですが香りが良くラブラドールとの散歩の途中に摘めば無農薬の食材が手に入ります。天ぷらと言っても少量のオリーブオイルで揚げているのでほぼフリッター状態ですが、こだわりは無用で美味しく食べられます。わらびやふきなど食べられる山野草は身近に多く、自生する植物だけで食生活を賄えないものかと妄想します。何でもお金で買う消費社会の対極にある生活が魅力的なのは、消費のヒエラルキーから離れ、モアアンドモアの呪縛から解放されることで、それ以上理想を追求する必要も執着も不要だからだと思います。森のなかでそよ風に吹かれながらお茶を飲んで読書をしているとき、もうこれ以上何もいらないと思えますが、これは産業に依存しなくても手に入る満足です。消費中心だった人生の疲れを癒やしてくれるのは、自然のなかで自給自足的に暮らすことなのでしょう。

本当に豊かな長寿国

2020年の日本人の平均寿命は9年連続で延び、女性が87.74歳、男性が81.64歳と、ともに過去最高を更新しました。地域として除外された香港を除けば、女性は世界1位、男性は2位と世界最長寿の国となりました。ところで、日本勢の活躍が目立つオリンピックですが、選手村の食事も概ね好評のようです。一方選手村に立ち入りができない一部のプレス関係者は日本のコンビニ食を絶賛しているようです。本家アメリカを凌駕するまでに進化した日本のコンビニは、海外生活から戻った日本人にとっても驚異のコストパフォマンスに映ります。食べたいときに食べたいものを買えるコンビニのある生活は一見豊かに見えて、健康面からは好ましいものではありません。血糖値が上がり続ける状況を想定していない人体にとってコンビニに並ぶ魅力的な商品群はどれも悪魔の食べ物です。人はその魅力に抗することができず自分を甘やかしますが、食べる理由を見失ったとき人は不健康になると思います。欲を満たすためではなく、身体を維持するために食べる習慣が根付くなら、日本は本当に豊かな長寿国になるのでしょう。

テントは現代の庵

数十年ぶりにテントを買いました。最近の山行では妻のテントを借りていましたが昨今のテントは耐水圧と透湿性の性能が向上した高強度繊維を使い、軽量ながらキャンプに付き物の雨や結露時の快適さを改善しています。しかしそれ以上に自分のテントを持つメリットは自分の庵を持てることです。日本では古来より僧侶などが世俗を離れて用いる質素な佇まいの庵が庶民からも憧れの対象となってきました。人間の居住場所から遠く離れた森や山岳地帯などの隔絶された土地に作られるインドのアシュラムなど、このトレンドは世界共通だと思います。人工的な外部刺激を遮断して自分の内面と向き合うための静寂で神聖な寺院を個人的に持つ喜びは、人生で最上のものに見えます。山の早朝も素敵ですが、日没の山頂に佇むだけで何をするわけでもなく満たされた時間を持てそうです。今一番引きつけられるのはそんな場所に身を置くことで、大半の人にとっては極端過ぎるかもしれませんが、質素でスパルタンな暮らしがあらゆるレベルで健康を促し心身のバランスを調整してくれると思います。

自然はマインドフルネスの宝庫

灼熱の東京でオリンピックは続きます。日本が驚異的な経済成長を果たした理由のひとつに東京一極集中を上げる声もありますが、前回の東京大会の頃は誰もそれを疑わなかったと思います。車で2時間の長野県なら同じ時期に扇風機がいらないどころか、夕食を屋外で取ろうとすると肌寒いほどで、こうも暑い東京に暮らすことには疑問があります。長野の冬は氷点下の寒さですが、労力を惜しまなければ薪ストーブの燃料を確保でき冬の寒さも楽しみに変わるのとは違い、人工的な空調に頼らざるを得ない生活は不合理であり不健康です。身近に自然の少ない東京では人工的な欲望に楽しみを依存しますが、飲食もやがてそれほどは食べられなくなり、海外旅行がコロナ以前に戻ったとしてもいつまでも行けるものではなく、それらを徐々に手放す恐怖にかられます。人が病気になるのは不自然な生き方が原因で、それは人類が長年親しんできた自然のなかで太陽を浴びながら活動し、かつほとんど食べない生き方に現代的なライフスタイルが反しているからだと思います。人は所有物を増やすほど足りないと思う心配性の習性があり、常に失う恐怖がつきまとう人工的な楽しみより、マインドフルネスの言う今の瞬間に喜びを見出せる自然のもとで暮らすことが幸せに近づくのでしょう。

食欲の大半は不自然な欲求?

北アルプス縦走から戻り10日が経つとすでに次の山に行きたいという欲求が湧き上がります。不自由の多い山でのテント暮らしにこれほど引きつけられるのは、自然のなかで過ごすことが体内リズムを自然のリズムと同調させて身体を元気にするからだと思います。欲求には自然な欲求と不自然な欲求があり、食欲の大半が不自然な欲求であることは、現代社会に食源病が蔓延していることでもわかります。いつでも食べ物にアクセスできる時代には、食べないことに意思の力が必要で、食べないことの爽快さを知らなければそのモチベーションは生じません。知覚による経験は幻想的なものですが、そのはかない断片に人はしがみつこうとします。成人以降は細胞分裂の回数が減り、本来たいして食べる必要も寝る必要もないはずですが、人は世間並みの生き方や生活から外れることを恐れ無駄に食べ無駄に寝ていると思います。良い暮らしを求める欲求も同様で、人は自ら商業主義の餌食となり失う恐怖を手放せなくなります。山での生活が愛おしいのは、外的要因による幸せが真の喜びをもたらさないことを覚醒させてくれるからでしょう。

80円でそこそこのレストラン

私の周りではコロナ禍の東京を離れる人が目立ちますが、東京を離れるメリットのひとつは食材へのアクセスが改善することだと思います。福島にしても長野にしても野菜が安く、夏場の食費の安さは劇的とも言えます。昼食を食べない日が多いのですが、昨日はどうしてもお腹が空き、自分一人なのでサバとズッキーニのサラダを作りました。甘いズッキーニは5本で100円と東京の5分の1の値段で、食材原価のほとんどはサバ缶ですがそれでも料理原価は80円ほどで、そこそこのレストランと遜色ない美味しさです。森の木陰で食事をする贅沢さに追加のお金は必要なく、質素な料理でも特別なランチになり、そんなロケーションの土地は移住条件に合致すればただで用意してくれる自治体もあります。何かにつけ昨今は暮らし難さばかりが語られますが、都市型ライフスタイルの洗脳から解放されると、労せずに幸せを手に入れる方法は非現実的ではありません。人の密集する都市を狙い撃ちしたかのような疫病騒動は、都市的な幸せを前提にした人生の形をも変えようとしているように見えます。

全ては幻想であり錯覚?

昨日は久しぶりに独りで早朝の八ヶ岳に登りました。独りで登るメリットは自分の身体とじっくり対話する内省の時間を持てることです。古来より修養としての慎独の大切さが語られてきましたが、世間では人と時間を分かち合う楽しさばかりが誇張され、反面ひと目ばかりを気にして気を病む人も少なくありません。最初に入った会社の寮の名前が慎独寮で愛着のある響きですが、集まってバカ騒ぎをした印象しか残っていないのは無理もないことでしょう。しかし今は、独り慎み心身の内面に弾力を持たせることで人生をより深く味わうことができると思います。人生は肯定的な面ばかりでなく、否定したくなる局面も等しく尊い味わいがあるはずです。快楽偏重社会は人々の欲望と直結し、その弊害はマネーシステムばかりでなく、宗教や政治、経済といったあらゆるシステムを嘘で覆い、真実と安らぎを感じることができるのは虚無主義だけです。しかし、世界のなかに自分がいるのではなく、五感を通して電気信号を受けた脳が、自分の中に世界を作り出しているなら、全ては幻想であり錯覚だと悲観する必要もないのでしょう。

不快な快適さ

東京の夏は例年ほどの酷暑ではなく過ごしやすいように感じます。それでも夜中に扇風機が止まると寝苦しさで目が覚め、この季節は寝不足になります。クーラーをつければ朝まで起きることなく眠れますが、身体が冷やされる不快感を思うと、多少汗ばんで眠れない方が意識の上では快適です。この違いは快適さを生理的に捉えるか感覚的に捉えるかの解釈の違いで、快適な不快さを選ぶか不快な快適さを選ぶかの違いです。この感覚は食べたあとの不快さと何も食べないときの爽快感のどちらを選ぶかにも似て、どちらが人体の設計のデフォルトに沿ったものかを判断基準にすると世間的な風潮は逆転します。飽食時代の皮肉は、われわれが口にするほぼすべての食物は例外なく何らかの毒物に汚染をされていることです。重要なことは自分の思考の主体は誰かを問うことだと思います。脳は自分の所有物に見えて実態はその逆で、脳は人を操り支配します。誰もが幸せの根拠を自己の本質に置こうとしますが、その本質の主が誰であるかは曖昧なままかもしれません。

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