寝るのが早いため毎朝2時頃には起き出します。暗い時間にラブラドールと散歩をして、地下のドライエリアで虫の音を聞きながら仕事をする早朝の3時間は脳が働き、リラックスかつ集中できるゴールデンタイムです。今朝は雨ですが、街が動き始める前の澄み切ったこの数日の空は、東京とは思えない美しさで、月が輝き、人工衛星や流れ星を見ることもあります。東京で感じる自然が、最も神秘的な表情を見せる時間を大半の人は知りません。星空を見上げるだけで穏やかな気持ちになり、散歩ほどコスパのよい健康法はないと思います。消費の多くは中毒性があり身体に悪い反面、小食、睡眠、有酸素運動といった健康に良い事にはお金がかかりません。健康が幸せの基盤なら、他人の価値観に追従するような消費をしなくても幸せになれます。アリストテレスが幸福は自分次第と言ったように、考え方ひとつで全てを人生の味方にできるのでしょう。
昭和の化石
昨日は母が入院する某国立病院に行きました。何年か前に建て直され、吹抜けやカフェはあるものの、雑然として陰気な場所に感じられるのは、独立行政法人になろうが悪しき国営体質が継承されているからでしょう。アンドルー・ワイルは、未来の病院はリゾートホテルのような場所になると言いましたが、親方日の丸体質が改まらない限り、そんな時代は来ないはずです。見るからに薄情そうな医師は昭和の化石といった雰囲気で、話は専門用語で分かりにくく取り付く島もありません。自分が健康に留意するのは、人生の晩年をこのような負のオーラがうごめく場所で迎えたくないという恐怖心からです。こんなところに来るぐらいなら死んだほうがマシと思えるほどで、短時間いただけなのに寿命が半年縮む思いです。健康であることのありがたみを感じただけでもよしとすべきなのでしょうが。
離れることでしか見えないもの
生涯現役が幸せな生き方だと思うのは、働くことが中心の生活は、社会とつながり充足感を得る方法だからです。必ずしもお金を得ることは必要ではありませんが、収入があればさらに満足感が高まります。仕事には与えられた仕事と主体的な仕事があり、目的意識もなく働き始めた自分が、仕事の主体性を意識し始めたのは比較的最近のことです。仕事の本質は自己実現であり、そこに生きる意味を見出しますが、難しく考える必要はなく、要はやりたいことです。厄介なのは、仕事の主体性は仕事から離れることでしか見えないことで、それが与えられた仕事であればなおさらです。欧米の社会が長期のバカンスを必要とするのは、おそらくこのためでしょう。学びであれ、放浪の旅であれ、何もしない内省の時だとしても、人生には働くことから離れる時期が必要なのかもしれません。第二の人生をやり直せる現代人は幸せなのでしょう。
与えられた価値観
幸福には2つのタイプがあり、自然のなかで感じる幸せと、都市的な生活のなかで感じる幸せです。前者はセロトニン的な健康の幸せであり、後者はドーパミン的中毒を伴うと言い換えることもできそうです。週末に行った南会津で、河原にある大きな栗の木の下に行くと、たくさんの実が落ちており見ているだけで穏やかな、そして豊かな気持ちになるのはオキシトシン的、セロトニン的な幸せと言えます。自然豊かな田舎は多くの恵みをもたらし、主体的に何かを生み出すことができます。一方のドーパミン的幸せは専ら稼ぎ、消費することが中心の暮らしで、稼ぐことや金を使うことに目を奪われ、常に比較思考から離れることができません。消費することで得る豊かさがイリュージョンに過ぎないと感じるのは、現代的な豊かさが、あまりに多くの犠牲の上に成り立つ与えられた価値観だからでしょう。
草刈りはスポーツ?
昨日は南会津町に草刈りに行きました。高齢化する農家にとっては重労働とされる草刈りは、体幹支持エクササイズと同等以上の運動効果があるとされます。背丈よりはるかに高い河原の葦と4時間ほど格闘すると、健康づくりと言うよりも格闘技に近くなります。美しく刈り取るかを競う競技会も開かれますが、里山の環境保全につながる草刈りが今後はスポーツとして認知されるかもしれません。その後は近所の家で郷土料理のばんでえ餅(板台餅)をご馳走になりました。栃木、福島、新潟にまたがる地域に古くから伝わる郷土料理で、固く炊いたうるち米を使う粘りが少ない餅に、ネギの入った自家製の甘味噌を乗せるもので、後を引く美味しさです。東京は猛暑ですが、すでに電気の入ったこたつに座り食事をすると穏やかな気持ちになり、家庭が料理を提供するミールシェアが、インバウンド旅行者に人気なのが分かります。
人生100年時代は訪れる?
人生100年時代と言われて久しいのですが、その発端は人生100年時代構想会議にも呼ばれたリンダ・グラットンの著書、LIFE SHIFTが出版された頃からだと思います。2007年に生まれた子供の半数が106歳まで生きる、といった話が眉唾に聞こえるのは、現代の食生活があまりに貧しいからです。戦中戦後を生きた今の高齢者世代は、貧しい時代の粗食と少食が幸いして、現代医療の恩恵を受けながら長寿を享受している可能性があります。一方で戦後流入したジャンクフードや添加物、農薬で汚染された食品に加え、過食を続けてきたわれわれ世代が、今の高齢者以上に長生きすることは難しいように見えます。他方、われわれ世代の持つ最大の武器は、健康長寿に関する21世紀の知見です。オートファジーやサーチュイン遺伝子を活性化する少食と運動を実践することでのみ、人生100年時代は訪れる気がします。
睡眠は運任せ?
睡眠時間が短かくいつも睡眠負債を抱えていて、寝床に入り遮光カーテンを閉めると、それが夜の8時であっても瞬間的に意識を失います。気絶するように眠るのは好ましくないようですが睡眠時間も安定しません。昨夜は珍しく7時間眠り寝起きの充足感があります。食事や運動であれば自分で気を付けることはできますが、睡眠ばかりはやるべきことをやった後は運任せのところがあります。世間には睡眠時間は7時間半にすべきとか、長ければ長いほど良い的な風潮がありますが、そうした強迫観念こそが不眠症を生んでいると思います。睡眠が運任せである以上、目が覚めてしまえばそれが夜中の1時であってもよほど眠くない限りそのまま起き出します。無理に寝ようと思わないので、睡眠負債を抱えますが、おかげで不眠症とは無縁です。百寿者にはショートスリーパーが多いですし、睡眠のあるべき論の押し売りは止めてもらいたいものです。
オフグリッドで生きる
最近の関心はオフグリッドな生活スタイルです。リゾートの世界でも、ミニマルな文脈のなかでラグジュアリーが再定義され、絶景に立地するオフグリッドキャビンが注目されます。一方で、現代の安楽な生活を前提にするなら、インフラ構築に膨大な費用がかかり実用的とは言えません。元々は送電網であるエレクトリックグリッドを使わない生活を指し、今ではガスや水道、下水などの公共インフラに依存しない生活を意味するようになりました。オフグリッドはハードの問題ではなく、生き方を見直すソフトにその本質があると思います。太陽光発電が盛んな日中は電気を使い、日没以降は人類が本来持つサーカディアンリズムに沿った晴耕雨読的な生活をします。電気の自給はやがて食の自給につながり、人々がオフグリッドで生きられるなら、資源や富を奪い合う戦争もなくなり、縛られていた拡張主義的な価値観からも解放されるのでしょう。
人生の後悔リスト
第二の人生が長いとはいえ、寿命が永遠ではない以上後悔することは減らしておきたいものです。海外に不動産を持つとか、国立公園に温泉旅館を持つといった子供っぽい夢は実現しましたが、その結末は決して望ましいものではありませんでした。妻は海外の有名な山に登りたいと言いますが、冒険的なレジャーにも心ときめくことがなく、執着と脂肪だけが増えそうな贅沢な暮らしにも食指が動きません。人生の後悔リストを考えると、これをやらずに死ねないということが思い浮かばないのですが、あせって生き急ぐ必要もないのでしょう。何かを達成しなくても、生涯現役で日々勤勉に生きればその時が訪れても後悔は少ないような気がします。強いて言えば、清流沿いにサウナのついた古民家を持ち、毎日山に登ることですが、夢をささやかなものに留めるなら失望もなく、人生の後悔リストを減らす秘訣かもしれません。
30代より今の方が若い?
週末はラブラドールと八ヶ岳最南端の西岳に登りました。富士見登山口から山頂までの標高差は1,000mあり、1時間10分ほどの登りは散歩代りです。しかし30代の頃は重たい体を引きずり休み休み今の3倍の時間をかけて息を切らせて登っていました。40代後半で肝炎になったのが幸いして、糖質制限により最終的に体重が25kg減量しました。おそらく今でも25kgの荷物を背負って登ることは無理だと思いますが、都合よく解釈をして30代より今の肉体年齢の方が若いと思い込むようにしています。体が言うことをきかなくなるのは年のせいではなく、年を取ることに対するネガティブな思い込みが原因でしょう。運命論者に与えられた思い込みを捨てない限り、第二の人生における新しい可能性は開けないのかもしれません。先入観と思い込みによるマイナスのラベリングが、人を必要以上に老けさせていることは確かだと思います。