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人間の可能性

2013年9月に東京大会が決定されたときの熱狂と、そのあとのインバウンドバブルが吹き荒れる原因となったオリンピック開催まで10日となりました。東日本大震災からの復興という当初のビジョンが、今は地球規模の疫病からの再生に変わり、一年前は対岸の火事だったロンドンが代替開催地を名乗り出たことなど遠い昔のように感じます。スポーツが人々を引きつけるのはそこに人間の可能性を見るからだと思います。長年スポーツをしなかった自分がオリンピックより心待ちにするのが、今年の夏開催されるトランスジャパンアルプスレース(TJAR)です。海抜0メートルの富山湾から標高3,000m超の3つの日本アルプスを抜け駿河湾までの415kmを走る世界屈指のエンデュランスレースは、2002年に4人で始まった年の完走率25%に対し、30人が参加した2018年には90%と人間のパフォーマンスは大幅に向上しその可能性の限界を完全に書き換えています。エクストリームスポーツの世界で人類史に前例がないほど短期間でパフォーマンスの急激な向上が起きた理由は、時代が今この瞬間を生きることを求めているからでしょう。

ボディマインドシステムの真贋

昨日の朝は八ヶ岳の西岳(2,398m)に登りました。朝の森を満たす冷涼な空気を吸うだけでエネルギーが取り込まれ五感が冴える感覚です。深呼吸は無意識の呼吸に比べ6~9倍の空気を入れ換えるとされネガティブな感情も一掃され心が落ち着きます。末梢の血液量が増加することから最も簡単な血管のケアにもなり、同時にミトコンドリアを活性化します。午後は30度を超える東京に戻りインド系アメリカ人医師のディーパック・チョプラの本を読みました。1990年代に書かれた本ですが、当時は読み流していた内容が頭に入るのは、その間多少の知識が増えたことと、朝の山頂での経験があったからだと思います。アユルヴェーダを量子力学と統合した彼のニューエイジ・アユルヴェーダはエセ科学とのそしりを受けてきました。心と身体という区別をやめてボディマインドというひとつのシステムと考える謎のメカニズムを受け入れる素地はまだ整っていません。老化は学習された行動であり、変化しやすくときに逆転させることさえできるという彼の主張は、生活習慣病の蔓延を止めることができない現代医学よりも信じられます。

良い医者は気をまぎらわす?

昨日はちょっとした観光地と化した山梨県白州の金精軒に行きました。自由に持ち帰れるように店頭に置かれたラベンダーをひと束もらいましたが東京なら数百円はする立派なものです。鎮静作用のあるラベンダーの香りは脳を休ませ、深い眠りに誘います。その香りはリラックスをさせるだけではなくセロトニンが分泌されコルチゾールの量が減り心臓への血流速度が上がり腸の動きを活性化させます。部屋中に充満するラベンダーの香りをかいでいると治療と治癒の違いが分かります。前者は外部からの働きかけであり、後者は自然の力で内部から健康を取り戻します。紀元前のヒポクラテスの時代からある自然治癒力という考え方を近代医学は意図して排除してきました。山に入り静かな時間を持ち、自然のなかで深呼吸することで心も体も癒されますが、その効果を現代社会は過小評価していると思います。良い医者とは自然が病気を癒すまで患者の気をまぎらわしてくれる者だ、と言った人がいますがそれは真実をついた言葉なのかもしれません。

失われたベンチャースピリット

娘が高校の頃からインターンをしているスタートアップ企業の話は刺激的です。先日合宿があり、年長者であっても遠慮なくフルボッコにされると聞いて以前在籍した外資系企業を思い出しました。今となってはそんな会社に戻りたいとは思いませんが、上意下達で年を取るほど楽なぬるま湯体質を享受できるワーカーは自分の世代が最後でしょう。戦後は焼け野原からの出発ですからベンチャースピリットが産業界のDNAでしたが、いまや創業率世界最低クラスの成長できない国に貶めたのは、惰性で組織や国を動かしている人達の責任だと思います。人はコンフォートゾーンと呼ばれるストレスのない環境に留まろうとしますが、パフォーマンスを発揮できるのは適切なストレス環境下です。給料後払い説を信じて来た世代が楽をするのは当然の権利と考えるように、リタイア後は安楽に暮らしたいと考える人が増えれば同様に国も個人も活力を奪われて行くのでしょう。

教習所は進化したのか?

教習所に通う娘の話を聞くとそれなりに教習所も進化しているようです。接遇レベルが上がり施設が現代風になることは当然ですが印象的なのは、教え方にも多少の変化があることです。教習所というと十年一日の如く錆びついた知識を教えるイメージがありますが、たとえば車間距離の取り方を教える際はやっと欧米並に2秒ルールを教えるようになったと聞きます。前の車が通過した場所から自車がその場所を通過するまでに01、02と数え適切な車間距離を保つ方法ですが、以前は時速100km/hで100m的な実用性のない知識を教えていました。教習所に限らず免許更新時に配る教本なども講習が終わればそのまま捨てる天下り先のためだけに作っているような代物です。教習所で言えば交通法規だけを教え、急ブレーキの踏み方や山道を走る際のアウト・イン・アウトのライン取りなど実用的な運転をほとんど教えないことは、安全運転の観点からは片手落ちでしょう。概して教育セクターが保守的で肝心なことを教えないのは、批判を許さない風土から自分たちの使命を見失うからでしょう。

食欲と冷静に付き合う

昨日のように日本工学院に出講する日は一日一食で食欲について考える機会になります。食べ物を見ればお腹はすきますしいくらでも食べられると思うのですが、一方で空腹は曖昧な欲求でやり過ごすことも忘れることもできます。実際には一日一食でも不満も不都合もなくむしろ活力は増すのですが、長年三食の生活を続けてきた習慣と郷愁から多くの日は二回食べます。この妥協の原因は脳の部位によって反射的、感情的、論理的な反応が生まれるからで、前者は意志とは無関係に人の行動を支配します。食べないことを快と思えるようになると意志が芽生え、従来感じていた食欲が反射的、感情的な欲求であり幻想だと分かります。食事を減らした日の身体の軽さと次の食事の美味しさを知ると食欲という原初的な欲求と適度な距離を保てるようになり、物欲や我執からも遠ざかることができると思います。人は心の中に作り出した幻想を、それがあたかも恒常不変の実体であるかのように考え執着しますが、食欲と冷静に付き合うことが心身のバランスを整えるのでしょう。

日本人が失った深い精神性

古典や漢文の授業を受けたのははるか昔のことですが、嫌いな授業で唯一ワクワクしたのは庵や草庵が出てくるような場面です。世捨て人に憧れる素地はその頃からあったのかもしれません。飛鳥時代から奈良時代にかけて、本院とは別に人里離れた山林に庵を結び修行を行う山林修行が行われていました。粗末な草庵に美的な側面を見出す「侘び」という文化的な背景は、現代よりも当時の生活の方がゆとりを確立していたことを伺わせます。室町時代、市中にありながら山住まいを思わせるような草庵風の茶室が作られるようになり、それらは市中の山居と呼ばれました。世俗と交わりを絶って不自由ながら志高く生きようとする草庵の隠者に憧れ、その思想の影響を受けたとされます。茶室は隠者の庵を理想とし、現実から隔たれた虚構の空間で遁世者として振る舞い、静寂な境致を愉しむ場とされます。簡素ながら繊細な狭小空間に自然を持ちこみ、都市との際立った対照を楽しむ知恵には現代の日本人が失った深い精神性と生活文化の豊かさを感じます。

健康に希望を与える唯一の方法

本当の食通はほとんど食べない人のことである、という意見に賛同する人はいないでしょう。しかし食べることにフォーカスする唯一の方法はほとんど食べないことだと思います。この説が受け入れられない理由は、多くの人にとって食欲を感じる場所が脳であって胃腸ではないからです。欲望を本能的かつ自明のものとみなしその起源やメカニズムについて注意を払わないことは大きな見落としです。「私たちは全てを持つが、何も持っていない」と述べたのは小説家のチャールズ・ディケンズですが、世界屈指のグルメ大国日本の野菜は世界一高濃度に農薬汚染され、毎日80種以上もの食品添加物を摂取しているとの指摘があります。ほとんど食べないことのもう一つのメリットはこれらの毒を一気に減らせることです。一日二食なら3分の2に、一食なら3分の1に減らせ、毒は蓄積されますから長い人生における健康への影響の差は小さくありません。断食は脂溶性の毒を消す有効な方法であり、虚構の幸せがあふれる社会で健康に希望を与える唯一の方法だと思います。

傲慢さが招く災害

週末は富士山麓の登山道整備に行く予定でしたが降り続く雨で中止になりました。そんななかで起きた熱海の土石流はよく知る場所での災害だけにリアリティが増します。開発に伴う盛り土の一帯が崩れておりソーラー発電施設が原因とも疑われますが、いずれにしても植林も含めて人間による開発が招いたことでしょう。日本の国土の66%は森林で自然に恵まれていると感じますが、大半は人の手で改変されたものです。日本列島の森林は災害の起きた伊豆山付近のような照葉樹林帯であれば海岸付近の植生はタブノキ、スダジイといった深根性の常緑広葉樹で本来の森ならこうした崩壊は起こらないとされます。人はいつまでも生きていけるような錯覚にとらわれますが、自然は人間の思惑を超えてダイナミックな変動による自然淘汰を繰り返し、その力の前で人は無力です。自然現象の予測を困難にしているのは、自然を管理しようとする人間の傲慢さに他ならないのでしょう。

禁欲も快楽も偽り

人は常に幸せを求めようとしますがそれは皮肉にも不幸の始まりだと思います。現状に満足するなら欲求は消え、欲はいつも現状への不満の裏返しです。一度欲望が目覚めるとそれが実現しなければ不幸に感じ、実現してもすぐに慣れてしまいさほど幸福は感じられなくなります。執着はいつも未来がこうであれば幸せという仮定を伴い、その結果いつも欠乏感を抱え、次々次と欲望を実現したい執着にとらわれます。そして執着はいつも自分の外部で生じることから虚構と実在の区別がつかなくなります。他方でほとんど欲求を持たないで生活することにも問題があると思います。無批判なマインドフルネスブームは一段落しましたが、今改めてその功罪が問われています。脳がぼんやりとあれこれ考える神経活動であるDMN(Default Mode Network)は脳疲労を蓄積しますが、他方で雑念を消すことに注力し過ぎると創造性や活力を奪われる弊害が生じます。結局何事も程ほどが肝心で禁欲主義も快楽主義も偽りで中庸の道が幸福の鍵なのでしょう。

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