外出する日は食事のことを忘れますが、家でのんびりしていると何かを食べたいといった雑念が生じます。考えただけで急に食欲が芽生えることを見ると、食欲は自然の摂理ではなく自作自演の欲求でしょう。昨日も散歩に遠出したついでにパンを買ってしまい昼食に食べた後、普段は感じない種類の空腹を夕食時に覚え、小麦が人を栽培しているという比喩はあながち間違いではないと思います。元々は毒を見分けるために発達した味覚ですが、安全な食糧を調達できるようになった現代人は、それを快楽のために使うようになりました。快楽は神経伝達物質の分泌と受容体の感度によりもたらされ、普段の食事と、高級な飲食店で食べたときとの違いにたいした差はありません。われわれが感じる食べる喜びは、味覚によってもたらされるのではなく、低血糖と演出による一種の自己洗脳なのでしょう。
小さな自然の世界
近所ではバラを咲かせる家が増え、至るところで甘い香りに包まれます。花が咲き誇る場所は高いエネルギーを帯び、近くに行くだけで生命力が高まり、肯定的になり幸せを感じます。木や花と日々接する植木職人は7年長生きという研究もあり、土に親しむような暮らしが健康にプラスであることは確かでしょう。戸建住宅に住んでいたときは庭の手入れなど全くせず荒れるに任せていましたが、集合住宅になり、土に触れる場所が小さな花壇だけになると、ハーブを植えるようになり、ラベンダーなどが咲くその場所は我が家のパワースポットになっています。空腹時の食事が美味しいように、土が希少になることで五感が高まり、猫の額ほどのハーブガーデンに小さな自然の世界を見出します。物理空間はあくまでも相対的なものであり、自分の心によって現実世界を書き換えることは可能なのでしょう。
悪魔のルール
ゴールデンウイークは高速道路も例年ほど込まず、期待した反動消費は控えめだったようですが、他方で一部地域の宿泊施設は驚くような高値になっていました。昔は高値で売られる商品に憧れましたが、今は高い商品を見ると興ざめします。高価格になるほど執着の双六が始まり、事業者が意図したゲームから降りられなくなるからです。より積極的な理由は、消費を減らしたほうが人に邪魔されない自分だけの時間が増えることです。値段は実のところ、需給関係で決まるのではなく、供給側が打ち込んだアンカーによって決まると思います。悪魔のルールを知っている商売人はアンカーの打ち方がうまく、値段が上がると客は価値も上がったと錯覚し高い価格設定について行きます。非日常的演出が好まれるのはお金を取りやすいからですが、何気ない日常を充実させることがむしろ価値は高いと感じます。
外界は自分を幸せにしない
昨夜は寝ようとしていた時間に帰宅した妻がアイスクリームを買って帰り、反射的に食べてしまいます。大半の刹那的快楽が健康に悪いのは、遠い祖先の時代と現代があまりに環境が違うのに、脳がアップデートされていないからです。かつては糖質にありつく機会が乏しく、それを燃焼効率の高い脂肪に変換するのは生き残り戦略でしたが、いくらでも糖質にありつける現代は体脂肪率の上昇が命を脅かします。麻薬的快楽に人は順応し、さらに欲求をエスカレートさせます。多くの産業は脳がホルモンレベルで感じる現在快楽型の性格を利用して、さらに強い刺激で消費者を欲望に溺れさせることで成立します。ガンジーが大罪とした「良心なき快楽」から逃れるには、現代が常に快楽体験の記憶を他人に刷り込まれ、外界の何物も自分を幸せにしないという幻想を見抜く必要があるのでしょう。
一食と二食を行き来する
最近は一日1.5食生活ですが、外出をする日は一日一食です。一食の日は二食の日より食事が美味しく、期待値も満足度も高まり、回数を減らすほど食事が貴重になり丁寧に食べます。三食をきちんと摂ることが奨励されてきましたが、少なくとも更年期を過ぎてからの三食は過食で、気分や体調に応じて一食と二食の間を行き来する食生活が気に入っています。美味しいモノを食べたい欲求は誰しも持ちますが、美食追求の問題は食べる対象をスタティックにとらえ、執着を自分で作り出すことにあると思います。美味しさへの影響は食べる自分側の問題で、何でもおいしく食べられる空腹状況を作り出し、不味いと感じなければ不幸になる回数が減ります。料理や店へのこだわりを煽るグルメ志向が見落としているのは、五感を研ぎ澄ますことにより、美味しさという官能評価能力を高めることだと思います。
シルクのシーツは要らない
お金を使わずに生きることは不可能ですが、屋外で体を動かすことが趣味なら、消費の枠組みの外で楽しむことは工夫次第だと思います。連休中はガソリン代や買い物に1万5千円ほど使いましたが、その範囲で食事をして4日ほどトレッキングに行きました。商業主義の誘惑に免疫ができたのか受容体が欠如したのか、外食や外泊の誘惑に不感症になり、これで十分と思えば不満も欲望も消えて行きます。前日ベッドに入った記憶がないほど寝落ちが早いので、スレッドカウント1500のシルクのようなシーツも要りません。他方で月曜日に打ち合わせに行ったコメダ珈琲で、無料のトーストを提示されると貧乏性で食べてしまいます。朝食にトーストという最も避けたい悪夢のメニューでさえその魔力に抗うことは難しく、食べなければ損という本能が食欲の記憶を呼び覚ますのでしょう。
コスパ思考を崩す機会損失
昨日は白河と仙台で打ち合わせがありました。せっかく福島や宮城まで来たし往復800kmの運転は疲れるからと、以前なら那須湯本温泉あたりの源泉かけ流しのコスパの良い宿に泊まりました。ここでのパフォーマンスは、硫黄泉+過不足ない部屋+旅の風情、の付加価値を示しますが、この計算式には自宅にいれば本来得られた価値の機会損失を割り引く必要があると思います。1、2分で気絶するようにぐっすり眠れる自宅以外の場所にあえて泊まる理由を見出せなくなりました。これは外食をほとんどしなくなった理由と同じで、食べ物の安全性リスク、店で不快な思いをするリスク、食後の余韻を楽しめない機会損失を考えると、外食も外泊もあえてリスクを取ってまで面倒なことにお金を払う理由を見出せなくなりました。ステイホームのトレンドが長引き、市場は元には戻らない気がします。
多少刺激的な週末
究極も極端も英語にするとextremeですが、前者が最高を意味するのに対して後者は道を外れるニュアンスがあります。スポーツ愛好者の間で俗に言う「変態」という節度のない行き過ぎた過負荷のオーバーロード・トレーニングは後者でしょう。トレラン界で言えば先月行われた100マイルレースのUTMFや、昨日まで開催された438km、累積標高28.3kmを競うSHIGA1などはエクストリームスポーツの代表でしょう。昨日は、大菩薩嶺の南尾根にある日本一長い山の名で知られる牛奥ノ雁ガ腹摺山(1,991m)から大月駅に近い岩殿山(634m)まで25kmのバリエーションルートをスピードハイクしました。エクストリームというほど冒険的でなく、アクティビティというほどに快適でもなく、体へのダメージと翌日に疲れを持ち越すことのない多少刺激的に体を動かす週末は理想に思えます。
たいした違いはない?
表参道に行くと、マリトッツォブームの震源地として知られる福岡発のベーカリーAMAM DACOTANの行列を見かけます。曜日を問わず数十人が並び、待ち時間が3時間以上の日もあると言われます。そもそも外食や中食をほとんどしませんが、行列に並ぶ気持ちが理解できない自分などは食べ物があふれる日本においても異端でしょう。小麦や生クリームなどは強い至福感を伴う変性意識が強化されそうな食材ですが、業務スーパーで買った食パンをバルミューダでないトースターで焼いて食べる時の喜びとどのぐらいの差があるのか考えます。我々の選択は自由意思のように見えて、過去の認知行動パターンに制御され、問題はそれが他人に支配される場合です。快楽そのものは生存本能ですが、快楽体験を外部から操作されていることに気づかなくなると、強い執着と欲望の暴走が始まるのでしょう。
お金から自由になる?
早朝4時頃に小淵沢道の駅の前を通ると、決して狭くない駐車場を車中泊の車が埋め尽くしています。キャンピングカーはむしろ少数で、多くは普通のセダンやハッチバックです。車中泊仕様の車が増え、休日の消費行動は変わり始めているようです。収入が安定するサラリーマン時代は、豊かさをお金では測れないという事実に向き合おうとしませんでしたが、貨幣経済からなるべく離れ、騒音のない状態で自分と向き合う時に感受性が高まり幸せを感じます。幸せは感じる力の問題であって、それが麻痺して劣化すると時間とお金があっても気力と体力、夢も希望もなくなると思います。この世の苦しみはお金が作り出すのに、人は逆だと考えます。お金を使った後の潮が引いていくような、虚しさの広がりを人は見ないようにします。お金から自由になるという言葉は誤解されているように見えます。