迷信になったカーボローディング

週末は八ヶ岳の編笠山、西岳に登りました。海辺でぼんやり過ご時間も魅力的ですが、マリンスポーツをしない自分は受動的になり、良好な刺激を受けられるのは山にいるときです。3時間半ほどで周回できるこのルートは高度を上げるに従い森の植生が変わり、山頂直下は多量の岩塊が現れる変化に富み、登りながら様々なアイデアが湧きます。西岳からの下りは走る瞑想に適したトレイルで、坐禅のように警策で肩や背中を打たれなくても集中力を欠けば石に躓いたり、木の根に滑ったり、足を挫きますので、純粋に楽しめる上に集中力を養えます。糖質制限をしていれば糖新生と脂肪酸ケトン体システムを使ってエネルギーが作られますので、補給は途中の清水だけです。脂肪をエネルギーに変えやすい体になれば、持久力が向上しより速く長く動き続けられ、自身の人体実験の結論は糖質を摂らなければ低血糖によるハンガーノックにもなりません。長距離のランニングで胃腸を壊す人は多いのですが、その主犯も糖質だと思います。走ることで交感神経が優位になり胃腸の消化吸収機能が極端に低下し、消化が悪い炭水化物が残ることで胃酸が過剰分泌されるのがそのメカニズムです。米文化の日本で糖質制限には抵抗があり、欧米では迷信になったカーボローディングが未だに信じられています。

フィクションなのか現実なのか

昨日は夕刊紙の見出しのような「関西電力 反原発町長暗殺指令」を読みました。一連の問題の震源地である原発銀座高浜町の今井町長(当時)の原発警備犬による暗殺を関電若狭支社の副支社長(同)が警備の委託先に命じたとする疑惑を扱った本です。犬を凶器にする荒唐無稽な発想は、有象無象が原発マネーに群がる現実が露呈した今は真実味を増します。話題の森山助役も同和利権の実力者、原発利権の中心人物として描かれ、関係者の多くが実名で書かれます。関電に忠義を尽くせば豊かな生活や金を得ることができる原発の町には言いしれぬ寒々しさを覚えます。反社会勢力を使い裏の仕事を仕切る幹部は、かつては多くの大企業にいたのでしょうが、原発という聖域には今も闇社会が広がっているのかもしれません。表の顔を持ったエスタブリッシュメントが実は裏社会を仕切るという陰謀説は世界中で注目が集まるようになりましたが、本を読み進めるとこれはフィクションなのか現実世界の話なのかさえ曖昧になります。

多様でありながらシンプル

昨日は逗子、鎌倉に行きました。山に行く機会が多く海に行くのは年に二、三度ぐらいですが、砂浜でアーシングをしながらただ打ち寄せる波と雲を眺めているだけで心が落ち着きます。由比ガ浜付近はすっかり欧米人の生息地帯になり、ラブラドールを連れているためか外国人観光客2組に道を尋ねられ浜辺でも声をかけられます。波が高い昨日は、海辺に佇むだけで自然の息吹を感じられます。自然の懐に入るだけでも気分は良くなりますが、運動を媒介に自然と関わるとより高い満足をもたらします。マリンスポーツをする東京で働く人にとって、湘南暮らしはひとつの理想形でしょう。自然が近くにあると夜明け前や夕日の美しさなど、都会には乏しい時間や季節の移り変わりを感じることができます。自然に近い暮らしほどコルチゾールやα-アミラーゼ酵素の分泌量低下などストレスレベルが下がり、精神的に安定することを多くのデータが示しています。見落とされていることは、自然と触れ合っていると感じるだけでも効果があることです。オフィスを出て屋外で仕事をするだけでもメンタルヘルスの改善につながります。都会で感じる美しさはどこか異物感を覚えますが、自然には多様でありながら調和が取れているシンプルな美しさがあります。

運命共同体の暴走

原発マネーをめぐる黒い交際は底しれぬ闇の深さを感じさせます。劣化した社会の正体が露見すると疑心暗鬼が広がります。経済成長や地域振興を無邪気に是としていた社会ではその負の側面に光が当たることはなく、金の亡者が跋扈する貧しい昭和の時代の亡霊が舞い戻ってきたようです。一見お堅い公共インフラを担う企業において現役トップが不正に絡み、報酬2割の2カ月返上という甘い社内処分を見ると寒気さえします。人は自分の思考と真逆の可能性を信じることができません。われわれが身につけた社会常識は見たくない社会の裏面を見落としていると思います。本質とは誰かの意図によるバイアスを取り除いたものですが、黒い霧に包まれた戦後の原子力政策の背後には悪意が見え隠れします。病的なまでに法令遵守を唱えていたはずの大企業で未だに繰り返される粗暴な不祥事を見ると、そもそもコンプライアンスそのものが悪意のために利用されてきた疑念さえ起こります。歪んだ村社会発想の行き着く先は日本の負けパターンである運命共同体の暴走でしょう。

実は自身に語っている

今日から日本工学院の後期授業が始まります。立教大学以来講師歴は17年になりますので、教える仕事は本業と言えるかもしれません。人前で話すのが苦手で大学の教育実習で母校に行く前日にとても緊張したのを思い出します。コンサルティング会社に転職したとき、プレゼンテーションのトレーニングで「君は話すセンスがあるね」と講師に言われた一言は意外でした。以来自分は話すのが得意なのかもしれないと自己暗示をかけるようになり、人前で話すことに緊張がなくなりました。話すことへの苦手意識はなくなったのですが、それはあくまでも話したいことがあるときだけです。プレゼンテーションの基本は聴衆が聞きたい話をすることですが、自分の場合はそれより自分が話したいかどうかが重要です。話したいことがなければ、予定調和で無味乾燥の退屈な挨拶のようになってしまいます。後期4コマの授業は昨年の授業とほぼかぶりますが、昨年の講義資料を見ても話したいという気持ちが起こりません。自分が学ぶことの楽しさを感じなければその熱を学生に伝えることはできず、講義をしているようで実は自身に語っているのかもしれません。

未来の可能性を信じる

人は自分を客観視できない生き物だと思います。サラリーマン生活に汲々として自由時間がないときは仕事のないリタイア生活を夢見るのに、いざ自由時間ができるとやりたいことも気力もなく漫然と空虚な日々を過ごします。最近聞かなくなった言葉に「壮年」があります。厚生労働省の資料では25~39歳を「壮年期」としていますが、現役期間が長くなりこの年代のみを働き盛りとすることは適切でないと思います。最近では還暦を祝う習慣も薄れてきました。還暦祝いに贈る赤い衣服は魔除けの意味で赤色が使われた産着で、生誕時に還るという意味があると言います。引退を奨励する習慣は今の時代には有害でしょう。社会の都合で一線から退かされ、自分は年寄りだという自己暗示が寝たきりなどの不幸を生みます。危険なのは、身体が除々に弱り最後は寝たきりになるという嘘を信じることです。脳や筋肉は鍛えればいつまでも成長を続け、現役のまま死ぬことができるのに日野原重明氏や三浦雄一郎氏は例外だと決めつける思考はいずれ現実になります。未来に目標を持ち、その可能性を信じることが高齢社会の先頭ランナーである日本には必要だと思います。

忙しいときほど山に行く

消費増税を静かに始めたい政府にとってワールドカップの熱狂は心強い存在です。増税しても可処分所得が増えるなら問題はなく付加価値生産性の向上が日本の課題です。仕事の生産性が最優先なら淀んだ空気の執務室ほどふさわしくない場所はないと思います。リモートワークが技術的に可能になってから四半世紀が過ぎてもいまだに産業革命当時の匂いのするオフィスで働く習慣は変わりません。パタゴニアの経営で有名なのは「社員をサーフィンに行かせよう」というメッセージです。日本支社が鎌倉から戸塚に移り本当にサーフィンに行けるかは疑問ですが、福島で毎朝のように山に登るとこれが単なるスローガンや誇張ではないことが分かります。忙しいときほど自然の元に出かけ運動をすべきだと思います。早朝の森の澄んだ空気を吸いながら高度を上げていくと歩く瞑想になり、下りはリズミカルに駆け下りると脳の血流が上がります。標高差1,000m程度の山なら2、3時間で往復でき、山頂を踏むプチ達成感が一日の仕事を始めるきっかけになります。運動をし過ぎると疲れて肝心の仕事ができなくなりますので、運動量の見極めは重要です。惰性的な仕事に給料を払う余裕があるうちは、パフォーマンスを最大化する職場環境や脳の活性化と言った議論は無用なのかもしれません。

60代、70代が現役

にわかラグビーファンを増やしたワールドカップは、アイルランド戦の歴史的勝利という世紀の番狂わせで予選プール首位に立ち、盛り上がりは最高潮に達した感があります。食わず嫌いならぬ見る機会がないためにラグビーには興味がありませんでしたが、ゲーム展開が早くアスリートらしい肉体の躍動に引き込まれます。周りには元ラガーマンは少なくありませんが、今でもプレーをする人はほとんどいません。運動能力の低下や怪我のリスク、蓄えた脂肪も理由で、中高年でも続くスポーツで人気なのは野球とゴルフでしょう。どちらもあまり動かないスポーツで野球選手のBMIはアスリートとは言えないレベルにあるとの調査もあります。学生以来30年のブランクを経て自分が突然スポーツを始めたのは20kgの減量のおかげで、元の体重では走ることもできず足を壊していたはずです。スポーツをする素晴らしさは高揚感がやる気スイッチを入れ自らを律すること、加えて人間関係の広がりと学生時代の記憶が蘇る若返り効果だと思います。トライアスロンやトレイルランニング人気が衰えないのは60代、70代になっても現役として参加できる競技だからでしょう。

幸せの代償としての消費

マインドフルネスが世界的に注目されるのは、自分を見失うほど世俗の雑音が耐え難いからだと思います。あらゆる面で人との比較を強いる都市は心身を疲れさせ深い安定をもたらす自己の内面と向き合えなくなります。本音を隠して生きると、やがて素で生きることができなくなり心と身体のバランスを崩し最後は自分さえ信じられなくなります。収奪装置としての都市はフォーカシングイリュージョンである飲食や娯楽、高級品などの消費で魅了し、お金で悩みを解決しようとする快楽脳を歓迎します。都市が人を引き止めているのは華やかな消費ですが、なりふり構わない経済成長が終わった日本に、都市を延命させる理由は無くなります。世界人口の過半数が都市居住者になったのは5年ほど前ですが、都市が本来の居場所でないことは誰もが知っています。人体は自然の摂理に従い生きることがデフォルトで無機質な空間での生活は人類史の異常事態です。福島にいる頃は那須連山を望む旅館の隣の丘から阿武隈源流の川音を聞くだけで幸せでしたが、東京にいると幸せな時間を実感できません。それを癒やすためには消費を繰り返すことが必要なのでしょう。

残飯でさえ美味しい?

意図した断食ではなく、ストレスから5日間何も食べられなくなったことがあります。雪に閉ざされた真冬の甲子高原で6日目に食欲を感じるようになり、そのとき初めて普段の食欲は仮初の欲求だったことに気づきました。多くの宗教が伝統的に断食を行うのは、身体に静寂を取り戻すことで狂った五感を補正する役割を経験的に知っているからだと思います。そのときはご飯と味噌汁、たくわんが無性に食べたくなり、おそらく捨ててある残飯でも美味しく感じたと思います。生きるための食欲こそ人間本来の欲求ですが、飢餓を知らない現代人は微細な味の違いとステレオタイプの記号を消費します。ボードリヤール(Jean Baudrillard)が「消費社会の神話と構造」で述べたように、大量消費社会におけるモノの価値は、モノそのものの使用価値や生産に利用された労働の集約度ではなく、商品に付与された記号にあると思います。人は美味しそうな料理という外部世界で形成されたコードに従い、映画「マトリックス」が描いた仮想現実の世界を生き、自己説得してでも満たされたいのだと思います。

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