昨日マカオから深圳に移動しました。人口30万人の漁村が、30年で1,400万人超に膨れ上がり、香港を抜いて中国トップのGDPを誇る都市は、高齢化が進む中国にあって65歳以上人口2%の前評判通り、地下鉄の車内は若者だけです。QRコード決済などで現金を持ち歩かない先端都市は、電車もバスも小額紙幣がわずかに使える程度で到着したばかりの旅行者には不便です。マカオから船で着くと事前に各自が機械で指紋登録をするのですが、不慣れな旅行者には分かりづらくイミグレーションの職員も横柄で不親切です。慣れてしまえば容易いことばかりですが、小額紙幣を持たない旅行者は地下鉄のトークンひとつ買えません。交差点には多数の監視カメラが設置され、警官がサブマシンガンを持つ高層ビルの立ち並ぶ街にはゴミひとつ落ちていません。美しい街はどこかいびつで、1949年に刊行された小説でジョージ・オーウェルの描いた未来は、1984年ではなく70年後のアジアの大国で実現したことになります。
図書館がそばにある生活
即物的な欲求のはけ口としてのカジノ、ポルトガル統治時代の面影を残す荘厳な教会、生命力と死が同居する市場など、異なる要素が混在するマカオは思考をかき混ぜる場所です。中国人観光客の圧倒的な購買意欲に、平成バブルの熱狂の記憶が蘇ります。一番気に入った場所は、マカオ最大の図書館であるロバート・ホー・トン図書館です。1894年以前に建築されたポルトガル人の住居を1958年から図書館として使っています。コロニアル建築と2005年に完成した新棟、それらが囲む中庭の居心地が良く、年配の女性が涼し気な木陰で本を読む姿に目を引かれます。先日見た沖縄県立図書館もそうですが、良い図書館がそばにある生活に憧れます。
レガシーエアと失われた30年
昨日マカオに来ました。経営悪化でキャセイに買収されたLCCの香港エクスプレスは、乗客のほとんどが日本人なのに日本語アナウンスを全くしない割り切りようです。トイレこそ無料ですが個人モニターもなく、水も出ません。一方、同じような値段で売りながら機内食を出し、エコノミー客にまでワインを何度も勧めるようなレガシーエアは過剰品質であり放漫経営にさえ見えます。顧客満足がいくら高くてもそれが単価上昇に結びつかないレガシーエアの姿は、平成が終わる今日、デフレ下の30年間の日本企業と重なります。
人間が向かうべき新天地
AIの不気味な進化とRPAの洗練はシンギュラリティの議論を消し去るように見えます。米国では医師、会計士、弁護士などの士業が静かにAIに置き換えられ、花形とされた戦略コンサルさえお払い箱になっていると聞きます。誰もが人間に残される仕事の領域を考えます。しかし、ディープラーニングの仕組みを人間が解明できないのに、AIは何が苦手か考えることは無駄だと思います。言えることは、AI時代の恐怖が人々を走らせる先にはビジネスチャンスがあるということです。まだわれわれが気づいていないが、生物としての人間が本来持つはずの人体の眠れる能力が次のフロンティアだと思います。広い領域の事象を無意識に組み合わせる全体性、ルールに抵触するきわどさやいい加減さとの両面性、生身の人間が発する場の空気を透視する嗅覚など、五感で感じ肉体を通じてアウトプットすることこそが人間が向かうべき新天地だと思います。
目標のない人生なんて
真冬に戻ったような寒さのなか、昨日は100マイル山岳レースのUTMFに多くのFB友達が参加しました。温かい室内でGPSの航跡を追うだけの自分にとって、雨天から雪にかわった山を夜通し走る友人たちは遠い存在です。ゴールという目標のある人は幸せだと思います。花粉症を口実に練習もせず、怠惰な生活を許す自分に罪悪感を覚えます。人間はいくつになっても体と心を鍛え続けなければ急速に衰えていきます。美味しいものを食べ友達と楽しく過ごし、たまに旅行やスポーツをするだけの余生を夢見ていましたが、目標に向かおうという気力のない人生など、退屈で気持ちは満たされないと思います。
反捕鯨こそが野蛮
ニュージーランドに呼応したとされるスリランカのテロといい悲劇の連鎖は跡を絶たず、異文化理解とは逆の力で世界は動いています。カルロス・ゴーンの逮捕について米国有力紙が批判を繰り返しますが、グローバルスタンダードのような顔をしている米国の訴訟社会こそ病んでいます。刑務所の民営化で終身刑を乱発するような国が日本の司法制度に文句をつける資格はありません。2月にロンドンに行ったとき、WWF(世界自然保護基金)に勤める親戚が英国の入国審査官に「捕鯨問題をどう考えるのか?」と聞かれて足止めされた話を聞きました。捕鯨問題の腹立たしさは、酷い方法で日々動物を大量殺戮している国が日本の伝統文化を糾弾するご都合主義です。鯨だけは特別という勝手な主張で過激なテロに及ぶ連中に寛容な反捕鯨の風潮こそが野蛮です。
エリート支配対平民主義
カルロス・ゴーンの再逮捕と保釈のニュースに接し、日本における教育のあり方を考えます。いまに始まったことではありませんが、全入時代の高等教育は学ぶ意味を奪い、知的探究心のない学生を量産します。他方で良い面もあり、それは教育の平等性です。カルロス・ゴーンが教育を受けたグランゼコールはエリート養成機関として高等教育を受けるに値する知的能力の有無を早い段階で厳しく選別し、国が丸抱えで育成します。遅咲きの知的能力をもった子供は切り捨てられ、最終学歴によって一生人に使われる仕事に甘んずると言います。エリート支配が政治の公正さを捻じ曲げているのが格差の拡がる米国や中国です。平民主義を歓迎する日本でカルロス・ゴーンが逮捕されたのは象徴的な出来事に思えます。
自由と安定のジレンマ
近所の商店街を歩くとき、個人商店の客の入りが気になります。こんな客の入りでやっていけるのだろうかなどと余計な心配をして、客が入っている日は安心します。多くの商店や自営業者、経営者が毎日の売上に一喜一憂し心が休まる暇がないのに対して、毎月定額が振り込まれるサラリーマンは気楽です。ある意味で最良の社会保障制度だと思いますが、自身は現役時代その有り難さに気づきませんでした。慣れの恐ろしさで、お金を稼ぐというプリミティブな行為の存在を忘れてその境遇に甘んじます。10連休が近づくとサラリーマンの収支を考えます。この時期航空券や宿泊費は10倍以上に高騰することも珍しくなく選択肢も限られますが、絶好の機会を逃すまいと脅迫観念にかられます。10連休の熱狂に自由と安定のジレンマを考えさせられます。
肉体は衰えない
多くの人が諦めたら終わりだと知っているのに、こと年齢になると皆一様に諦めます。「もう年だから」と言う声をよく聞きますが、希望や明るい見込みがなければ人生は暗いものになります。皆が肉体的な衰えを信仰しますが、それは一面で正しく一面で誤りだと思います。70歳代になってフルマラソンを2時間台で走ることは難しいかもしれませんが、年齢にあったスポーツを選択することで肉体の限界は消えます。1948年生まれのマルコ・オルモ(Marco Olmo)が世界一過酷とされる100マイルのトレイルランニング世界大会UTMBで優勝を飾ったのは58歳でしかも翌年二連覇しています。この驚異的な偉業は、人間が本来持つ身体能力からすれば説明が可能です。86歳の今年、南米最高峰のアコンカグア登頂を目指した三浦雄一郎氏でさえ、60歳代は運動不足でメタボリックシンドロームに悩んでいたという話には勇気づけられます。
やる気の源泉は自然のなかでの運動
EBM(Evidence Based Medicine)が言われ始めて久しいですが、多くの場合それは遅すぎた証明であり、常識の追認です。他方で科学的な裏付けの取れないことを多くの人は信用しません。コンサルタントの仕事を始めてから20年の間、一貫した関心はやる気の源泉が何かです。企業の競争力は従業員のモチベーションにかかっています。どんなときに心の状態が良好で前向きになれ、自己肯定感が高まり意欲が湧くのか自分を観察します。自分にとってもっとも重要なのは自然のなかでの運動をしながらのリトリートです。満員電車に揺られ息の詰まるオフィスで仕事をするのと、早朝山に登り新鮮な空気とご来光を受けて温泉でリフレッシュしてから仕事をするのでは雲泥の差があります。しかしそれを推奨する人事コンサルはなく、せいぜい健康経営や執務環境の改善が注目されるぐらいです。自然のなかでの運動を経営に取り入れる会社も今のところ極めてまれです。自分にとってその効果は当たり前過ぎるのですがこれが証明されるのにはまだ時間がかかると思います。