理想的なバランスで必須アミノ酸を得られる赤飯を炊く機会が増えました。小豆は、酵素を阻害する植物性ストレスホルモンのアブシシン酸を除去するために前の晩に水に浸けます。翌朝には小豆が膨らみ発芽しようとしているのが分かります。動物であれ植物であれ、食事をすることは命を奪うことを感じます。香港でもマカオでも市場に行くと生きた動物とその処理を目の当たりにしますが、日本では命を奪う屠殺が人目に触れることは稀です。それゆえわれわれは食べることに罪悪感を持つことなく気軽に食事にアクセスし、贅沢を善と考えます。人間の愚かな特性は手段が目的化することだと思います。生きるために食べるはずが、食べるために生きるようになります。時代の風潮に流されて、地位財を手にすれば幸せになれると錯覚することも同じで、結局は心身を蝕む生き方でしょう。人が生きること自体が他の生存を脅かすことであり、持続可能性などと綺麗事を言う事にも抵抗を感じます。誰にでも免罪符が必要な現代において唯一できることは、なるべく他の命を奪うことなく暮らすことでしょう。
ヴィーガン化はさらに進む
自分が年を重ねたと思うのは味覚が変わり、以前なら見向きもしなかった佃煮や漬物、湯豆腐が恋しくなるときです。一日の食事の回数が減り質素な食事でも感謝や喜びを持てることは好ましい変化でしょう。もう一つの変化は肉食をしなくなりパートタイムヴィーガンになったことです。人類が肉食になったのは250万年前の氷河期により樹木や果物が減ったことがきっかけとされますが、プラトンは肉食が始まり戦争が始まったと言います。現代栄養学のルーツであるカール・フォン・フォイトが唱えたカロリー理論と肉食礼賛を人類は100年以上信じてきましたが、今やどの街でもヴィーガンレストランを見つけることはできます。イギリス1部リーグのマンチェスターユナイテッドなどのチームが、炎症を助長し怪我のリスクを高める動物性食品を減らし乳製品をやめるなど、トップアスリートがヴィーガン化を強め、ネットフリックスのドキュメンタリー映画「ゲームチェンジャー: スポーツ栄養学の真実」も注目されました。肉食による腸内細菌の悪化は翌日の便で誰でも確認できますので、ヴィーガン化はさらに進むのかもしれません。
現代科学は人類史の異端
トンガ沖で発生した海底火山の大規模噴火による地球の寒冷化が農業や畜産業に影響し、食糧危機が起こると危惧する声があります。しかし戦後77年も平和が保たれた現代の日本において本気で飢餓を心配する人はなく、健康を脅かしているのはいつも食べ過ぎです。われわれが当然の権利と錯覚する、望めばいつでも食べられるという環境は、明らかに人類史における異端です。狩猟採集の時代には何日も獲物にありつけない日もあったはずで、そもそも猟に出るのは空腹を感じてからです。人体はお腹がすいてから猟に出て獲物を追って活動し、場合によっては何日も食べられない生活に順応しています。「空腹⇒活動⇒食べる」が生物本来のサイクルですが、「空腹=食べる」を奨励してきた愚かな現代科学が、テロメラーゼやオートファジーの証明により紀元前の知恵に追いつき、飢餓こそが健康の鍵だと気づいたのはわずか20年ほどのことです。たかだか数百年の歴史しかもたない現代科学こそ人類史の異端なのでしょう。
自由は欠乏の裏返し?
妻が冬山訓練で富士山に行き、東京の寒い家に一人でいると自由を感じます。最も自由を感じる時は好きな時間に寝ることでもアマゾンプライムを見ることでもなく、好きな時間に食べることです。好きなものを食べる自由ではなく、好きな時間に食べることが重要です。すなわち、食べることも食べないことも選択できる自由です。現代人の脳は食べないパラダイムに慣れていないために、食べない自由に心地良さを感じません。しかし、何でも買える自由よりお金から自由になることが重要なように、何でも食べられる自由よりは食べることから開放されることが本来の自由だと思います。その理由は、前提条件が満たされればという制限付きの自由は本当の自由ではないからです。もう一つの理由は、お隣の国の汚職官僚が何兆円も蓄財しようとするように、欲望には際限がなく、金を持つほど金に汚くなり、食べ過ぎなのにまだ食べようとするからです。表面的な自由は欠乏の裏返しであり、結局は自分を縛り付けるだけなのでしょう。
産業化より伝統文化
ランニングをする人にとっての神学論争は足のどこから着地するかです。長年のプロパガンダによって一般人はかかと着地以外の選択肢を考えませんが、メキシコ北西部の山岳に暮らす走る民族タラウマラ(ララムリ)が、世界的ベストセラーになった「BORN TO RUN–走るために生まれた」で紹介された頃からつま先着地のフォアフット走法が注目されるようになりました。ゴムタイヤと革紐のワラーチか裸足で走る彼らは、レジャーや競技のためではなく生きるために走り、それは人間本来の走り方に近いと考えられます。長年信じられてきたかかと着地のヒールストライク走法を分析的に見ると、実はあまりメリットがありません。一方接地時間が短かく、筋肉への負担が和らぐフォアフットは効率的なだけではなく、拇指球、小指球、踵の3点を結ぶアーチが足にかかる衝撃を吸収し膝や腰の故障を回避します。さらにふくらはぎのポンプ機能が働きやすく血行も改善します。日本の草履もフォアフットに適した構造ですが、産業化がもたらす生活変化よりも伝統文化に学ぶべきことは多いと思います。
使うではなく買う
トヨタ、ランドクルーザーの納期が4年程度と伝えられます。トヨタのジャストインタイムをしても縮めることができない納車期間が、当初5年とも言われた超長期に及ぶのは、一連のサプライチェーンの混乱に加え世界受注が好評で日本への割当が減っていることも一因のようです。フェアレディZやサバンナRX-7などのスポーツカーがプアマンズポルシェと呼ばれた70年代、80年代、レクサスやインフィニティが金持ちに見えないビル・ゲイツなどの新興富裕層に買われたのが80年代、90年代なら、今世界を席巻するのはランドクルーザーや常に納車一年待ちのジムニーなどのオフロード志向の車でしょう。テロリストの軍用車として売られることが国際問題になるほど砂漠での信頼性も絶大です。過激過ぎる温暖化対策へのささやかな抵抗なのか、転売目的の注文が含まれるにしても、若年層の車離れなど明るい話題の少ない自動車業界にとっては朗報でしょう。自分なら一年でも待ちませんが、現代の消費は使うことではなく、買うことに意味があるのかもしれません。
起業は当たり前
サテライトオフィス発祥の地とされる神山町を擁する徳島県のイベントに行きました。人が人を引き寄せる神山町の軌跡を見ると、補助金のメリットだけで企業や住民を呼ぼうとする自治体とは対照的です。来てほしい企業を逆指名したり、ユニークな取り組みが奏功して日本のどこにでもある中山間地域の人口5,000人の町が全国区の知名度を得ました。全域に光ファイバーが敷設されるなどインフラ上の利点はあるものの、その誘致手法は戦略的です。20年以上続くアーティスト・イン・レジデンスを皮切りにワーク・イン・レジデンスでサテライトオフィスを誘致し、シェフ・イン・レジデンスなどのレジデンス戦略が秀逸です。レジデンスとは滞在期間を示し、他の自治体のように移住にこだわらず、いわば出入り自由の関係人口構築を当初からコンセプトにしました。その総仕上げとも言えるのが2023年春開校予定の神山まるごと高専です。認可されるとノルウェーにある大学に次ぐ世界で二番目に小さい町の高等教育機関になります。起業家が創業メンバーとなるこの学校の卒業生にとって、起業が当たり前になることを期待したいです。
買えなくて良かった
パソコンを買おうとして面倒なプロセスの最後でカード決済ができませんでした。翌日カード会社に確認をすると海外とのある種の決済にロックをかけているとのことです。期間が過ぎてしまいセール品のパソコンを買い損ねましたが、買えなくて良かったと思いました。年を重ねて少しだけ利口になったことの一つに最善観があります。哲学者の森信三氏の人生に対する信念で、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という考えです。このときもセール品は買えませんでしたが、後で型遅れながら搭載メモリの大きな機種が見つかりむしろ好都合でした。キャリアの8割は予想しない偶発的な出来事により決定される「計画された偶発性理論」にも似ていますが、与えられた機会を活かし、積極的に機会を作り出す行動が必要でしょう。仕事を干されるとか、不快な人間関係とか、嫌なことは結局すべて好転のきっかけになることが分かります。我が身の不遇を嘆く前に事態を好転させる能力を身に付ける反応選択が求められると思います。
旅は人生を削ぎ落とす
英国内を旅行する娘とラインのビデオ通話をしました。スマホのおかげで遠く離れた場所を手軽にバーチャル体験でき、旅の可能性を広げます。昨日いたエディンバラは、工業地域でないことからドイツの爆撃を免れ古い建造物が残る美しい街です。雰囲気とおおよその地形がわかるバーチャルツアーは一人旅の定番になるかもしれません。旅には様々なスタイルがありますが、日常を忘れる漂白の時間が好きで、一人、あてもなくわずかな荷物で行くことに魅力を感じます。一人旅はまわりの価値観にあわせる必要がなく、背負い込んだものを削ぎ落とし内側にある自分と出会う機会になります。持っていける荷物に制限があるゆえに持ち物を真剣に考えます。これは人生も同じで、何が本当の幸せか知らないまま漫然と幸せを求めて生きると、余計なものばかりが増え、いらないものを背負い込んで生きることになります。最後の旅立ちには全ての荷物を置いていくのに人は溜め込む人生に疑問を抱きません。未知の世界への旅を恐れるのは失う恐怖であって、人生を削ぎ落とすことが必要でしょう。
土に近づく生き方
昨年話題になった映画ノマドランドを見ました。放浪生活をする年配の季節労働者を描いた、何事も起こらないドキュメンタリー風の映画が注目されるのは、65歳以降も働く必要のある米国人が83%という現実があるからです。映画のなかでは存在感を主張しないバンは家であると同時に伴侶であり、それ故に主人公は定住生活に戻らないのかもしれません。お風呂に入らないと気がすまない日本人にとってバンでの流浪生活はハードルが高いものの、自然とつながり人との絆が育まれる漂白の旅は希望の光に見えます。貨幣経済と言うくびきを自らに巻きつけた現代社会の先に生命力を発露する場はありません。この映画に希望を見出すことはできませんが、他方で仕事と家と夫を失った未来に行き場のない主人公は、生き方を選択する点において決して取り残された人々ではないと思います。どこへでも移動できる自由と健康さえあれば、自然とのつながりを感じながら自分をそぎ落としていく生き方は、むしろ清々しさを与えます。あらゆるものを引きずる囚われの人生から抜け出す方法は、土に近づく生き方なのでしょう。