本来の故郷に帰るため

「人はなぜ山に登るのか」の答えは登山スタイルの数だけあると思います。「なぜならそこにエベレストがあるからだ」と登山家のジョージ・リー・マロリーが言ったのはユーモアでしょうが、戦時下の航空機エンジン技術者から転じて雲ノ平山荘を創業した伊藤正一氏は「背後に社会があるからだ」と言いました。山に登る理由は主に5つあると思います。絶景との出会いなどの爽快さ、スリルや刺激を満たす冒険心、魅力的な人たちとの出会いや連帯感、心身を鍛錬し挑戦する達成感や自己肯定感、そして無心になり内なる声に従う心の平穏だと思います。夜の7時には静まり返り、朝3時前には活動が始まる山での生活は人間本来の姿だと思います。天候に感謝し、自分が背負える範囲で生活する全てが有難く、絶景と引き換えに大自然のなかで弱さと向き合い、デジタルデバイスから離れ、まさに人間本来の故郷に帰ることが山に登る理由でしょう。

早く帰りたいのが良い旅行

夏休みの旅行は楽しいものですが、帰る日が近づくと日常生活に引き戻され最後の夜がたとえ豪華な宿だとしても寂しくなります。一方、山での不便を強いられる旅は、早く家に帰り風呂に入り、生鮮食品を食べる日常に戻りたいので、旅の後半もテンションを維持できます。荷物を減らすには山小屋泊まりが有利ですが、薄い布地一枚を通して自然と向き合うテントは、突風に煽られ、ときには浸水し不安や不快を味わう反面、大地で眠る言い知れぬ開放感があります。テントをたたく雨音に心が落ち着くのは、偉大な布地に守られるシェルター内が実は天国だからでしょう。旅とは本来、過酷な自然と向き合うものですが、肉体を使わず快適に旅するためにお金を払い、一方で旅からは身体感覚が消えていきます。旅行から戻り束の間の夢から覚めるより、日常生活の偉大さに気づく旅は、支払った金額とは逆に幸せが続くのでしょう。

栄養失調にならない程度がグルメ

北アルプスから戻って以来、強い空腹を感じるようになりました。4日連続の高負荷の運動により身体は新たな一面を見せます。荷物を背負い15kmから20kmの登山道を歩くと4,000kcalほどのエネルギーを消費し、食事は一日一食ですから800kcal程度に留まります。足りないエネルギーと基礎代謝は、1gで9kcalを生み出す脂質などから体内で産生されたはずです。栄養学が推奨するエネルギー摂取量はケトン体を作る脂肪酸回路を考慮せず、エネルギーを消費しない都市生活者にとっては過大だと思います。テント場での夕食は時間をかけて食べますがいつまでも食欲が消えず、普段なら手にしない山小屋で売られる不健康そうな菓子でもエネルギーを補給したい衝動に駆られます。この状態が本来の空腹であり、いかなる食べ物であれ美味しく有難く幸せです。栄養失調にならない程度のカロリー制限と高負荷の運動が、健康と食の喜びを最大化するのでしょう。

必要なのは筋力と直感力

北アルプスでは魅力的な人々と出会い力を貰いました。強く印象に残るのは、登山界最高の栄誉とされるピオレドール賞を日本人最多受賞する世界的なアルピニストの平出和也氏です。氏と山で会うのは3度目で、最初は2018年のTJARの南アルプスで、二度目は翌2019年に同じ南アルプスで会い、今回の北アルプスは三度目です。早朝の北ノ俣岳山頂で選手の通過を待つ平出氏を見かけ、話をさせていただきました。K2挑戦の話が印象深く、コロナの影響により世界最高峰から離れたために、肉体のトレーニングはしていても、山との距離感を取り戻す時間が必要という話は示唆に富みます。限界状況では瞬間的に感じるインスピレーションが生死を分けるはずです。氏の肉体の美しさは並ぶものがありませんが、山で生き残るためには筋力を鍛えるように直感力を研ぎ澄ます必要があるのでしょう。

大倉喜八郎的贅沢さ

わが家の夏の最大イベントである北アルプス登山から戻りました。とは言え、登山口までは一般道で燃費の良いフィアットでアクセスし、キャンプ地の宿泊料は一人千円から二千円ですので、3泊して食費を含めても一人の出費はせいぜい1万円です。キャンプ道具があることは前提ですが、手付かずの雄大な自然の感動を存分に味わった対価の割にお金はかかりません。かつて、大倉財閥を築いた大倉喜八郎が89歳だった1926年に、南アルプスの自社所有地にある赤石岳(3,121m)に200人を従えた大名登山をした話は有名です。風呂桶をはじめ畳や寝台、シャンパンまで担ぎ上げ、道中では豆腐を作り、往復に使った草鞋は7,000足とされます。詰まる所お金のかかるレジャーとは、大倉喜八郎的な贅沢さを手に入れようとするからかもしれません。昨今の元気な89歳は、赤石岳なら自力で登るでしょうし、山上で家の風呂に憧れるから幸せが長く続くのだと思います。

人の能力を超える秘儀

世界一過酷な山岳レースTJAR(Trans Japan Alps Race)415kmを制した土井選手が、もはや超人的という月並みな表現では足りない記録で静岡県の大浜海岸にゴールしました。更新は不可能と思われていた5日切りの絶対王者の記録を縮める4日間17時間33分の偉業です。人間は疲労と回復のプロセスを繰り返しますが、回復を許さないほど過酷な5万Kcalもの途方もないエネルギー消費は、通常の人体なら生存は不可能に思えます。人類の歴史において前例がないほど短期間で人間のパフォーマンスが向上するのは、エクストリームスポーツがスポーツでありながらルールに守られず、スポーツの本質である人体の限界への挑戦という原初的な姿を留めるからだと思います。千数百年の歴史でわずかな達成者しかいない千日回峰行において、命がけの修行者が神を垣間見て人の能力を超える秘儀を身につけるように、極限のパフォーマンスが加速度的に向上する可能性を秘めているのかもしれません。

時代を変えるのは異端の存在

昨日は北アルプスの最奥部、標高2,600mに広がりアプローチの遠さから最後の秘境と呼ばれる雲ノ平に行きました。雲ノ平のもう一つのハイライトは雲ノ平山荘でしょう。日本の宿泊業界にあって、最も遅れているのは山小屋だと思います。国立公園内の宿泊施設を内務省が管理する米国のような体制がなく、ある種の放任主義的な運営方針が古くからの山小屋の経営スタイルを生み出したとも言えます。雲ノ平山荘は、山小屋に滞在しなければ生まれない時間の価値をテーマに、人々が創造性を持って自然と向き合える場所を追求しています。それは創業者が航空工学の若き研究者であり、敗戦により夢破れた人だからだと思います。美味しくて栄養がある手作りの料理はもちろん、山小屋とは思えない居住空間には、デジタル音源より豊かな音色を聞かせるレコードプレーヤー、オーディオ機器の機械美とマッチしたラックにまでこだわります。時代を変えるのは異端の存在なのでしょう。

旅にお金はかからない

世界一過酷な山岳レースTJAR(Trans Japan Alps Race)3日目は選手全員に追い抜かされたため、コースから外れて三俣山荘キャンプ場から鷲羽山(2,924.4m)を経由して、日本離れした景色の続く北アルプス裏銀座を野口五郎岳(2,924.5m)まで往復しました。首都圏からのアクセスに難点のある北アルプス裏銀座に行くのは初めてです。日本には人知れず美しい自然が残されており、それらを巡る旅にはたいしてお金はかかりません。ただし、手付かずの自然に触れるためには、自分の背負える範囲の荷物で、自力移動により旅をする必要があります。今回の山行でお会いした80歳の女性の肌は若々しく、体力も充実して元気に山を旅していて、周囲が力をもらいました。いくつになっても人の力など借りずに生きていく、と言う心づもりなしにそのような旅を続けることはできないのでしょう。

生活道具を担ぎ旅するのが本来の姿

世界一過酷な山岳レースTJAR(Trans Japan Alps Race)と巡る旅2日目は黒部五郎岳を経て三俣山荘のキャンプ場に移動し、途中今回の目的である、選手として出場するFacebook友達の元気な姿を見ることができました。雨露で1割ほど重くなった荷物を担ぎ強烈なアップダウンが連続するコースを辿ると、彼らの超人ぶりがよくわかります。北アルプスだけでも体力を消耗する難所なのに、中央アルプス、南アルプスと辿り最後は炎天下太平洋までの80kmのロードを駆け抜けると言う、素人にとっては到底希望の持てない距離です。昨日会った人は20kg近い荷物を背負い、剣岳から選手と同じルートをたどって応援に来ていました。ギャラリーもエクストリームであることは、TJAR観戦の特徴でしょう。生活道具を担ぎ旅するのが本来の姿かもしれません。

インスタントコーヒーさえも絶品

世界一過酷な山岳レースTJAR(Trans Japan Alps Race)との旅の初日は、北アルプス薬師岳(2,701m)山頂で大会新記録のペースでダントツ通過の土井選手とカメラクルーとして加わる、日本を代表する登山家の平出和也さんの軽やかな足取りを間近に見ました。そのルートを下りキャンプ場のテントで後続グループの到着を待ちます。選手が進む415kmもの絶望的な距離のごく一部とは言え、それを追体験しながら自分なりに肉体を酷使して進む山旅以上にリアリティーがあって鮮烈に記憶に残る旅はないでしょう。旅には、自分なりに印象を刻む感動さえあれば、遠くに出かけることも、豪華な宿泊施設に泊まることも、絶品の食事も不要でしょう。持参した赤飯と即席ラーメンだけのわびしい夕食ですが、山上での食事以上の美味しさはなく、食後のインスタントコーヒーさえも絶品です。

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