最近は一日1.5食生活ですが、外出をする日は一日一食です。一食の日は二食の日より食事が美味しく、期待値も満足度も高まり、回数を減らすほど食事が貴重になり丁寧に食べます。三食をきちんと摂ることが奨励されてきましたが、少なくとも更年期を過ぎてからの三食は過食で、気分や体調に応じて一食と二食の間を行き来する食生活が気に入っています。美味しいモノを食べたい欲求は誰しも持ちますが、美食追求の問題は食べる対象をスタティックにとらえ、執着を自分で作り出すことにあると思います。美味しさへの影響は食べる自分側の問題で、何でもおいしく食べられる空腹状況を作り出し、不味いと感じなければ不幸になる回数が減ります。料理や店へのこだわりを煽るグルメ志向が見落としているのは、五感を研ぎ澄ますことにより、美味しさという官能評価能力を高めることだと思います。
お知らせ
シルクのシーツは要らない
お金を使わずに生きることは不可能ですが、屋外で体を動かすことが趣味なら、消費の枠組みの外で楽しむことは工夫次第だと思います。連休中はガソリン代や買い物に1万5千円ほど使いましたが、その範囲で食事をして4日ほどトレッキングに行きました。商業主義の誘惑に免疫ができたのか受容体が欠如したのか、外食や外泊の誘惑に不感症になり、これで十分と思えば不満も欲望も消えて行きます。前日ベッドに入った記憶がないほど寝落ちが早いので、スレッドカウント1500のシルクのようなシーツも要りません。他方で月曜日に打ち合わせに行ったコメダ珈琲で、無料のトーストを提示されると貧乏性で食べてしまいます。朝食にトーストという最も避けたい悪夢のメニューでさえその魔力に抗うことは難しく、食べなければ損という本能が食欲の記憶を呼び覚ますのでしょう。
コスパ思考を崩す機会損失
昨日は白河と仙台で打ち合わせがありました。せっかく福島や宮城まで来たし往復800kmの運転は疲れるからと、以前なら那須湯本温泉あたりの源泉かけ流しのコスパの良い宿に泊まりました。ここでのパフォーマンスは、硫黄泉+過不足ない部屋+旅の風情、の付加価値を示しますが、この計算式には自宅にいれば本来得られた価値の機会損失を割り引く必要があると思います。1、2分で気絶するようにぐっすり眠れる自宅以外の場所にあえて泊まる理由を見出せなくなりました。これは外食をほとんどしなくなった理由と同じで、食べ物の安全性リスク、店で不快な思いをするリスク、食後の余韻を楽しめない機会損失を考えると、外食も外泊もあえてリスクを取ってまで面倒なことにお金を払う理由を見出せなくなりました。ステイホームのトレンドが長引き、市場は元には戻らない気がします。
多少刺激的な週末
究極も極端も英語にするとextremeですが、前者が最高を意味するのに対して後者は道を外れるニュアンスがあります。スポーツ愛好者の間で俗に言う「変態」という節度のない行き過ぎた過負荷のオーバーロード・トレーニングは後者でしょう。トレラン界で言えば先月行われた100マイルレースのUTMFや、昨日まで開催された438km、累積標高28.3kmを競うSHIGA1などはエクストリームスポーツの代表でしょう。昨日は、大菩薩嶺の南尾根にある日本一長い山の名で知られる牛奥ノ雁ガ腹摺山(1,991m)から大月駅に近い岩殿山(634m)まで25kmのバリエーションルートをスピードハイクしました。エクストリームというほど冒険的でなく、アクティビティというほどに快適でもなく、体へのダメージと翌日に疲れを持ち越すことのない多少刺激的に体を動かす週末は理想に思えます。
たいした違いはない?
表参道に行くと、マリトッツォブームの震源地として知られる福岡発のベーカリーAMAM DACOTANの行列を見かけます。曜日を問わず数十人が並び、待ち時間が3時間以上の日もあると言われます。そもそも外食や中食をほとんどしませんが、行列に並ぶ気持ちが理解できない自分などは食べ物があふれる日本においても異端でしょう。小麦や生クリームなどは強い至福感を伴う変性意識が強化されそうな食材ですが、業務スーパーで買った食パンをバルミューダでないトースターで焼いて食べる時の喜びとどのぐらいの差があるのか考えます。我々の選択は自由意思のように見えて、過去の認知行動パターンに制御され、問題はそれが他人に支配される場合です。快楽そのものは生存本能ですが、快楽体験を外部から操作されていることに気づかなくなると、強い執着と欲望の暴走が始まるのでしょう。
お金から自由になる?
早朝4時頃に小淵沢道の駅の前を通ると、決して狭くない駐車場を車中泊の車が埋め尽くしています。キャンピングカーはむしろ少数で、多くは普通のセダンやハッチバックです。車中泊仕様の車が増え、休日の消費行動は変わり始めているようです。収入が安定するサラリーマン時代は、豊かさをお金では測れないという事実に向き合おうとしませんでしたが、貨幣経済からなるべく離れ、騒音のない状態で自分と向き合う時に感受性が高まり幸せを感じます。幸せは感じる力の問題であって、それが麻痺して劣化すると時間とお金があっても気力と体力、夢も希望もなくなると思います。この世の苦しみはお金が作り出すのに、人は逆だと考えます。お金を使った後の潮が引いていくような、虚しさの広がりを人は見ないようにします。お金から自由になるという言葉は誤解されているように見えます。
屋外空間を求めている
花粉症が終わり、森の緑が一番美しく、暑くも寒くもなく、蚊がいないこの季節は屋外で過ごすのに最適です。2万人を調査した研究によると緑豊かな自然や屋外にいるとき、人は有意かつ確実に深い幸福感を覚えると言います。屋外で進化してきた人類にとっては自然が必要であり、屋外での生活を前提に体は設計されているはずです。太陽を浴びて体を動かすグリーンエクササイズを5分もすると気分が明るく楽観的になり、多くの悩みは杞憂に過ぎないことが分かります。かつて人類がほとんどの時間を屋外で過ごし自然と触れ合ったように、日本家屋は外部と内部をつなぐ構造になっていました。リゾート地などで絶好のロケーションにテーブルがあっても屋外の食事を断られることがありますが、新鮮な空気と日光浴のための屋外空間を求めているのに、それを実現しないのは事業者の怠慢でしょう。
成熟した社会
八ヶ岳の三ツ頭に登る途中のヘリポート跡にベンチがあります。元々プラスティック製の風景にふさわしくないものでしたが、昨日見ると落ち着いた色の木製ベンチに変わっていました。取付けられた金属プレートには、一昨日麓の遊歩道で会った外国の方の飼い犬らしい名前が書かれています。思い出の地に愛犬の名を刻み、多くの人の目に触れ、何より役に立ち、人の心に何かを伝える気の利いた方法だと思います。犬と山に登る素晴らしさは日本では認知が広がりませんし、山に犬を連れて来るべきではないと考える人もいます。大型犬でも人の体重の3分の1程しかなく、躾けられた犬であれば人や自然への影響も最小限です。ロンドンの美しい公園ではリードを外して散歩する犬を見てうらやましく思いますが、皆が節度を持って行動し、周囲が合理的に受け入れることが成熟した社会なのでしょう。
山に居れば幸せ
昨日は八ヶ岳の三ツ頭(2,580m)に登りました。雪の残るスノートレイルを歩いたり走ったりするだけで幸せです。幸せにはお金が必要だと信じ込まされてきましたが、幸せや豊かさを手に入れるのにお金はかからず、山に居れば満たされます。気分は神経伝達物質の分泌量に左右され、大金で手に入れた贅沢な休日の喜びも、森のなかで鳥の声を聞くときの満足と違いません。金で買った贅沢は商業施設を出たときに消えますが、日常の喜びは執着にも欲望にもなりません。満足は金で買えないという事実を知ると、お金に対する考え方が変わります。世間は収入の多寡ばかり注目しますが、買いたいモノがない人はたいした収入がなくても金持ちですし、いくら稼いでも欲望と愚かな消費が増えれば貧乏です。お金により麻痺した高揚感ではなく、満ち足りた時間が人生の価値と運勢を決めるのでしょう。
客も先入れ先出し
スーパーに行くと見切り品のラックを見ます。時間をかけて店が熟成させてくれた黒バナナのような掘り出しモノを見つける喜びは、スーパーに行くモチベーションにさえなります。昨日は何ともくたびれたサニーレタスがぽつんと一つ取り残されていました。カゴに入れるのを一度は躊躇ったものの、自分が買わなければおそらく廃棄されてしまうレベルのあわれさです。生鮮品は鮮度が命ですから、売り場の野菜や果物を底の方から引っ張り出して少しでも良いものを買おうとしたり、新しい製造年月日を選ぶ気持ちも分からないではありませんが、目を吊り上げる我れ善しの執着となれば元も子もありませんし不衛生です。食べ物に対する感謝の気持ちがあれば、そこまでして選り好みをする行動にはならないはずです。客も先入れ先出しに協力して、身近なところから食品廃棄をなくすべきだと思います。