自然に適応して暮らす

妻の父の家から貰った柿は、次々熟して食べ頃を迎え、あれほどあったのに残りわずかとなりました。車を運転していると道路沿いに実をつけた柿の木が目立ち、売られる商品と遜色ない美味しい遊休資産が放置されるのは勿体無くかつ不思議です。一方で近所の公園では、人手をかけて大量の落ち葉を掃き集めゴミとして処分しています。価値のないものにコストをかけて、価値あるものを捨てる矛盾は、消費社会が都市中心に偏重した論理だからでしょう。自然の恵みと人とのつながりに目を向けず、消費のなかに幸せを追っても満たされないのは、それが感受性の問題であり、金銭の多寡とは無関係だからかもしれません。工業的に作られた大量生産の不自然な食品により、早くもナポレオンの時代にはパリでガンなどの文明病が発症します。自然界に適応した生理機能を持つ人体が、都市化された人工環境下に暮らすことを見直す時期に来ている気がします。

一般人のための修行

昨日は日本二百名山の七面山(1,989m)に登りました。日蓮宗総本山の身延山久遠寺に属する七面山敬慎院がある山岳信仰の山です。トレイルランニングレースで三度登りましたがトレッキングは初めてです。標高差1,500mの霊峰富士を望む参道では、白装束の修行者を多く見かけます。南無妙法蓮華経を唱え山上の聖地に登詣する信徒は若い人も多く、今も信仰が守られることに安心します。普段の生活で失った心や身体のバランスを取り戻すために山を歩く行為は、一般人のための修行だと思います。日常生活で萎える気を戻す行為がハレであり、聖なるものに触れることでバランスを復元します。執着を手放し日々満足して、余計なものをそぎ落としシンプルに生きることが人間性を回復すると感じます。欧米中心に発展したトレイルランニングが日本に根付くのは、山岳全域を境内とする比叡山や高野山が開かれ、千数百年の修験の歴史を持つからでしょう。

思考の夢から覚める

昨日は夏以来の八ヶ岳に登りました。澄み渡る空に鮮やかな紅葉が映える秋は最高の季節です。やがて訪れる白一色の静寂に包まれる冬も最高なら、生命力に溢れる新緑の季節も最高で、本格シーズンの夏山が最高なことは言うまでもありません。つまりいつ登っても山は最高の場所です。きれいな空気を体に取り込み、空腹で登ればミトコンドリアが活性化し、オートファジーにより細胞レベルから浄化される生まれ変わりの場所だと思います。古代の人々が山を神聖視し、神が顕現する神域として磐座を中心に原初的な神社が生まれた理由もこの清々しさにあるのでしょう。戦後の日本人は長らく信仰から遠ざかりましたが、量子物理学や神経内分泌額、エピジェネティクスなどの最新科学が語り始めたメカニズムと、スピリチュアルで語られて来たことが一致し始めたことは、人々が思考の夢から覚めるきっかけになるのかもしれません。

砂糖の嫌いな甘いもの好き

甘いもの好き故に、デザートをなるべくホームメイドにするのは砂糖を減らすためです。健康志向の現代においても、おぞましいほど甘い食品が野放しにされています。特定保健用食品のはずの乳酸菌飲料ヤクルトでさえ、80mlにスティックシュガー4本が入ります。農林水産省によると日本人の年間砂糖消費量は昭和49年の30.4kgから令和元年には16.2kgと45年で半減して欧米諸国と比べても低い水準にあるとされます。しかし血糖値を上昇させる精製された砂糖が忌避される時代においては、甘過ぎる、塩辛過ぎると感じることはあってもその逆は皆無で、これも外食を避ける理由です。砂糖や塩を控えると味覚の感度が上がり、少量でも十分甘味や塩味に満足するようになると思います。少食が最強のグルメだと考える理由は、体を飢餓状態にしてこそ本来の鋭敏な味覚が戻ってくるからです。

対話のために旅をする

昨日は那須湯本温泉に泊まり、温泉の良さを認識しました。最近はサウナに入れ込んでいて、温泉より効能を体感できると思いましたが、一定条件を満たしたものは温泉でもサウナでも魅力的です。温泉であれば泉質と湯温、雰囲気、季節が重要で、サウナなら、ストーブ、水風呂、立地と雰囲気だと思います。北欧式サウナに熱狂する若い世代が、おじさんサウナに見向きもしないのはそのためでしょう。原初的なサウナとも言えるアメリカインディアンのスウェット・ロッジが魂再生の儀式であるように、サウナにせよ温泉にせよ、究極の目的は自分を浄化して変身を遂げることだと考えられます。変身願望を満たすのは旅も同じで、以前の会社のFB友達と白河・西郷の観光地を回りましたが、旅を自己投資に変えるのは対話だと感じます。人こそがパワースポットであり、対話のために人は旅をするのかもしれません。一人旅が好きなのは自分との対話を深めたいからでしょう。

妄想を投影する波長

昨日はかつて同じ会社で働き、奇しくも同月に退社したFB友達に福島県まで来てもらいました。自分ひとりの思考域には自ずと限界があり、事業や商品の卓越性を実現するにはカルト的に波長の合う人の意見が貴重です。隠されて見えないものを遠ざけず、神聖なものとして遇することで、やがて奇跡は日常に変わる気がします。人は誰かの助けが必要であり、同時に誰かを助けることができます。突き詰めると全ての事業はピープルビジネスですが、他方でストレスの大半も人間関係によって生まれます。過去と未来を支配するネガティブな信念を手放し、一方で、ワクワクする妄想を思い描き、今この瞬間に投影する力が生き残るための鍵だと思います。夜は那須湯本温泉のカルトとは無縁の寂れた宿に泊まりました。この肩の力が抜けたこだわりの無さが何とも懐かしく、自分にとって真に居心地の良い場所の探求は続きます。

生きることの豊かさ

国会議事堂付近を歩くと、月間販売目標わずか50台のトヨタ・センチュリーをよく見かけ、生息密度の高さは日本一でしょう。かつては小学生がなりたい人気職業だった国会議員が、今やユーチューバーに変わりました。若い世代ほど社会の変化に伴う幸福のあり方に敏感で、エスタブリッシュメントが必ずしも幸せな生き方ではないことを嗅ぎ取っている気がします。地位やお金への関心が薄くなり、次々と執着を生む贅沢品を避け、買わない生活を志向しているようにも見えます。旧世代は肩書や消費力といったシンボルによって自分のアイデンティティを定義してきましたが、消費を拡張し続けてもむなしさだけが残り、心の平穏が訪れることはありません。長続きしない20世紀型のイリュージョンは、最終的には何を満たすことも癒すこともないのでしょう。質素なものに心を寄せ、生きることの豊かさを感じる、自然に近い暮らしが理想に思えます。

人込みには近寄らない

日本人も犠牲になったソウルでのハロウィーン事故は、大半が10代、20代というむごさが悲しみを広げます。通勤電車が今より混んでいる時代に、将棋倒しに近い状況になり胸を圧迫されてどうすることもできず、命の危険を感じたことがありました。それをはるかに超える群衆雪崩により、何が起きるかは想像に難くありません。明石の花火大会事故以来、人込みに近寄ることを避けていますが、都市生活においては期せずして事件や事故に巻き込まれることもあります。秋葉原通り魔事件は安全なはずの歩行者天国区域で起きた事件で、自分に降りかかる可能性は誰も否定できません。事故の原因究明はこれからですが、集団でお祭り気分に酔う状況で警戒心が薄れたことは主因かもしれません。集団行動を重視して、大切な判断まで人任せにする日本人こそ、事故の教訓を胸に刻むべきでしょう。

野生の記憶

昨日は日本屈指のテーブルマウンテンである荒船山(経塚山1,422m)に登りました。絶景ポイントの艫岩(ともいわ)は垂直に120m切り立ち、2009年に「クレヨンしんちゃん」の作者臼井儀人氏が転落死する事故が起きました。往復3時間に満たない一般向け登山道ですが、リズム運動によるセロトニンと、ラブラドールが同行することでオキシトシンが分泌され、曇天ながら紅葉の美しさもあって、すっかり幸せな気分になります。そう感じるのは人間だけではないらしく、街中では覇気なくトボトボ歩いているラブラドールが、尻尾を振りながらグイグイと進んで行きます。自然のなかで過ごす時間に癒されるのは、そこが本来居るべき場所だからでしょう。都市生活により野生の記憶を失った現代人は、脳が支配する安楽で刹那的な欲求を満たそうとして、健全な生活を阻害する依存症に陥っているように見えます。

仕事一筋のリスク

ラブラドールと近所を散歩すると、通りすがりの人をただ眺めているだけの年配者を何人も目にします。違う時間に通っても、そのようにして時間を持て余しているように見えるのは、例外なく男性です。おそらく現役時代は時間に追われた人たちが、ひとたび仕事を離れるとやりたいことが見つからないのかもしれません。家庭にもコミュニティにも居場所がないという話は聞きますし、うつむきがちで表情も明るくありません。仕事一筋の終身雇用という制度は、日本人の寿命がそれほど長くない時代には適合的でした。現役時代は我慢をして働き、仕事を離れたらやりたいことはたくさんあると考えますが、いざ時間を与えられるともてあましてしまうのが現実のような気がします。高齢者大国の日本こそ、シェアリングエコノミーの仕組みを使って、お年寄りの知恵を価値に変えて社会に生かすべきでしょう。

Translate »