古典や漢文の授業を受けたのははるか昔のことですが、嫌いな授業で唯一ワクワクしたのは庵や草庵が出てくるような場面です。世捨て人に憧れる素地はその頃からあったのかもしれません。飛鳥時代から奈良時代にかけて、本院とは別に人里離れた山林に庵を結び修行を行う山林修行が行われていました。粗末な草庵に美的な側面を見出す「侘び」という文化的な背景は、現代よりも当時の生活の方がゆとりを確立していたことを伺わせます。室町時代、市中にありながら山住まいを思わせるような草庵風の茶室が作られるようになり、それらは市中の山居と呼ばれました。世俗と交わりを絶って不自由ながら志高く生きようとする草庵の隠者に憧れ、その思想の影響を受けたとされます。茶室は隠者の庵を理想とし、現実から隔たれた虚構の空間で遁世者として振る舞い、静寂な境致を愉しむ場とされます。簡素ながら繊細な狭小空間に自然を持ちこみ、都市との際立った対照を楽しむ知恵には現代の日本人が失った深い精神性と生活文化の豊かさを感じます。
健康に希望を与える唯一の方法
本当の食通はほとんど食べない人のことである、という意見に賛同する人はいないでしょう。しかし食べることにフォーカスする唯一の方法はほとんど食べないことだと思います。この説が受け入れられない理由は、多くの人にとって食欲を感じる場所が脳であって胃腸ではないからです。欲望を本能的かつ自明のものとみなしその起源やメカニズムについて注意を払わないことは大きな見落としです。「私たちは全てを持つが、何も持っていない」と述べたのは小説家のチャールズ・ディケンズですが、世界屈指のグルメ大国日本の野菜は世界一高濃度に農薬汚染され、毎日80種以上もの食品添加物を摂取しているとの指摘があります。ほとんど食べないことのもう一つのメリットはこれらの毒を一気に減らせることです。一日二食なら3分の2に、一食なら3分の1に減らせ、毒は蓄積されますから長い人生における健康への影響の差は小さくありません。断食は脂溶性の毒を消す有効な方法であり、虚構の幸せがあふれる社会で健康に希望を与える唯一の方法だと思います。
傲慢さが招く災害
週末は富士山麓の登山道整備に行く予定でしたが降り続く雨で中止になりました。そんななかで起きた熱海の土石流はよく知る場所での災害だけにリアリティが増します。開発に伴う盛り土の一帯が崩れておりソーラー発電施設が原因とも疑われますが、いずれにしても植林も含めて人間による開発が招いたことでしょう。日本の国土の66%は森林で自然に恵まれていると感じますが、大半は人の手で改変されたものです。日本列島の森林は災害の起きた伊豆山付近のような照葉樹林帯であれば海岸付近の植生はタブノキ、スダジイといった深根性の常緑広葉樹で本来の森ならこうした崩壊は起こらないとされます。人はいつまでも生きていけるような錯覚にとらわれますが、自然は人間の思惑を超えてダイナミックな変動による自然淘汰を繰り返し、その力の前で人は無力です。自然現象の予測を困難にしているのは、自然を管理しようとする人間の傲慢さに他ならないのでしょう。
禁欲も快楽も偽り
人は常に幸せを求めようとしますがそれは皮肉にも不幸の始まりだと思います。現状に満足するなら欲求は消え、欲はいつも現状への不満の裏返しです。一度欲望が目覚めるとそれが実現しなければ不幸に感じ、実現してもすぐに慣れてしまいさほど幸福は感じられなくなります。執着はいつも未来がこうであれば幸せという仮定を伴い、その結果いつも欠乏感を抱え、次々次と欲望を実現したい執着にとらわれます。そして執着はいつも自分の外部で生じることから虚構と実在の区別がつかなくなります。他方でほとんど欲求を持たないで生活することにも問題があると思います。無批判なマインドフルネスブームは一段落しましたが、今改めてその功罪が問われています。脳がぼんやりとあれこれ考える神経活動であるDMN(Default Mode Network)は脳疲労を蓄積しますが、他方で雑念を消すことに注力し過ぎると創造性や活力を奪われる弊害が生じます。結局何事も程ほどが肝心で禁欲主義も快楽主義も偽りで中庸の道が幸福の鍵なのでしょう。
何となく消費
以前は日本工学院の授業前にマクドナルドで2時間ほど資料を作っていましたが、自粛の風潮が広がって以降行かなくなりました。締め切りのある作業は結局どこでやっても同じようにはかどるので、家でもいいと思うようになりました。世間では自粛の反動消費に期待が広がりますが、一方で何となくルーチンで行っていた従来の消費を見直す動きが起きるかもしれません。コロナと直接関係はありませんがコーヒーを飲む頻度も減りました。自分は本当に今コーヒーが飲みたいのか自問すると、そもそも水分を摂る必要があるのかに思い至ります。それでもコーヒーが飲みたいと思うこともあるのですが、それは以前コーヒーを飲んでいた頻度の10分の1ぐらいで残りの9割は何となく習慣的に飲んでいたことになります。マーケティングの観点では、ミスタードーナッツのライバルが携帯電話という話は、ドーナッツというプロダクトが欲しいのではなく友達との会話というベネフィットが欲しいのと同じで、我々は意識することなく何となくプロダクトを消費するように刷り込まれているのでしょう。
今も昔も余裕がない?
昨日は教習所に通う娘と入所手続きに行きました。近所の教習所が最近廃業したせいかマニュアル免許のためか実技の予約が1ヶ月先まで入らないほど混んでいて、9月には英国に戻る予定があり必然的に4.4万円の追加料金を払い卒業までのスケジュールを確定させるオプションを選択せざるを得ません。免許を取得したのは随分昔ですが、AT車が珍しい時代で、今となっては懐かしいコラムシフトは遊びが大きくギアがどこに入っているのか分からないような代物でした。助手席にもアクセルとクラッチが付いていて、ハンドルだけまわすなんて芸当ができる不思議なセドリックはさすがに街なかでも見かけなくなりました。あの頃はバスもタクシーもトラックもひどい運転で、教習所の教官なども横柄な態度と相場が決まっていて日本中がガラの悪い時代でした。この間に立場は逆転し客が偉くなってしまい、マクドナルドの100円のコーヒーでも気に食わなければ文句を言うモンスタークレイマーの時代も考えものです。日本人は幾分上品になったのでしょうが今も昔も相手を思いやる余裕がない点は変わらないような気もします。
ガンは正常細胞?
20代のときは30代になりたくないと思い、30代のときは40代になりたくないと思い、その気持は今も変わりません。一方で今が人生で最良と思え、100歳になってもそれは同じような気がします。人が歳を重ねたくない理由は死が近づき徐々に体が弱るとの思い込みが強いからです。原因の分からない症状を医師が患者に納得させるのに老化現象ほど便利な言葉はありません。人が老化を早めるのは老化信仰があるからで、老化の概念は体の変化に置き換えるべきだと思います。二十歳頃をピークに全身が衰えるという洗脳が危険なのは、過去の記憶を脳が参照する意思決定や超長距離の山岳レースでは年配者の方が有利なのに、すべてをネガティブにとらえ衰えを無用に加速化し、そのポテンシャルを生かすことなく生涯を終えることです。この信仰が広まった理由の一つは18世紀以降に様々な計測が可能となった科学・技術の進歩でしょう。多くの人は見えるものしか信じないので検査数値や診断画像を崇めます。検査技術が進み早期発見が増えるほどガンによる死者が増加する矛盾は皮肉です。高齢者に死後多くのガンが発見されることから推測すると、ガンは環境変化に伴う血液浄化のための正常細胞という説も成り立つのかもしれません。
人とAIはどちらがマシか
政治の季節になり週末には都議選があります。それほど親しくない知人から電話があり、「素晴らしい人だから」と推薦されても困ります。背景も分からない人に投票する今のシステムには疑問があります。長年かけて築かれた制度ですから全否定するつもりはありませんが、政治不信が広がり肌感覚と政治が遠ざかる背景には、伝統的なシステムが抱える欠陥があることも事実だと思います。都議の年間報酬は政務活動費を含めて2,000万円ほどとされますが、ヨーロッパでは働いた日の日当と実費のみやボランティアもあるようで、どこかの自治体で大胆な実験ができないものかと思います。予算分配は監査を強化すれば役所に丸投げできそうですし、スマホの普及により効果測定は容易ですからいっそのことAIが意思決定をした方が議会対策などの無駄はなさそうです。人間が議員を行う自治体とAIが政策立案や予算配分をする自治体を試して比較する価値はあると思いますし今の技術なら可能でしょう。政治が利権に近いために社会を操る道具にされ、直接間接の浸透工作が行われ突かれるのはいつも人間の弱さです。AIも操作されますが、最後は人の愚かさとどちらがマシかという議論になりそうです。
森は命を育む
早朝に行く近所の神社は天正十二年(1584年)平安時代の武将平貞盛の子孫が創建したとされます。どこにでもある普通の神社ですが400年以上もこの地にあると聞くと歴史の重みを感じます。参道を歩くとき見上げるほどの常緑広葉樹の高木に目が行きます。神社の鎮守の森がどこも似ているのは本来その土地にあるべき植生である、潜在自然植生の特徴を一番残しているからでしょう。潜在自然植生はドイツの植物学者ラインホルト・チュクセンによって提唱された概念で、人間や動物が壊す以前のオリジナルの原植林ではなく理論的に考察した第3の植生概念とされます。典型的なのは明治神宮の森で、樺太から台湾までを含む全国からの献木13万5千本により計画的に作られた森ですが、昨年100年目を迎え自然淘汰により松も杉も姿を消し鬱蒼とした深い森を作り上げました。100年以上前に書かれた林苑計画書にも、最終的には針葉樹が淘汰されて常緑広葉樹の森になると予想されていましたが、その淘汰のスピードは予想より早いそうです。東京大空襲の焼夷弾が落ちたとき、社殿は焼失したもののこの森に逃げ込んだ近隣の人は難をのがれたと言い、森はいつの時代も命を育む場所なのだと思います。
食べないことが幸せ
昨日は起きた時から体が重く、神社まで散歩をしても心が晴れません。快調と程遠い理由は、前日に珍しく外食をしたことぐらいしか思い浮かびません。食べるという本能的欲求は消化のための負荷を伴います。解糖系中心にエネルギーを生み出す若い頃は人一倍食べましたが今のエネルギー産生回路は当時と違います。食べないことでエネルギーを得られるパラドックスが成立するのは、糖質制限や断食で体が飢餓状態に順応して血中ケトン体濃度を上げるからです。短時間で燃え尽きる糖質に依存しない飢餓に強い体を作ってこそ無限とも思えるエネルギーを得られますが、世間には元気なお年寄は週○回ステーキを食べる的な話が流布されます。ドイツの富国強兵政策の御用学者カール・フォン・フォイトを近代栄養学の父と礼賛し、その亡霊と言えるカロリー理論と肉食礼賛という虚像を今もマスコミが流すのは、食べ過ぎが産業にとって好都合だからです。近年のあらゆる生物実験は食物摂取を3、4割減らすと長寿化することを明かしますが、人のバイアスは食べる楽しみを過大評価し、食べ過ぎによる負の影響を無視します。最近は昔のように食べられなくなったと嘆く声を聞きますがそれが正常な姿であり健康に生きる秘訣でしょう。