旅の効用


世界一危険とされるテンジンヒラリー空港からドルニエ228で、一直線に伸びる世界の屋根を見ながらカトマンズに戻り、タメル地区の宿に入ると、初日にこの宿に来た時の印象とは違い、ラグジュアリーホテルに思えます。山に行く人なら、不便で不衛生な生活に耐性がありますが、それが2週間も続くことは稀です。標高5,300m超のEBCでもシャワーを浴びることはできますが、風邪をひくリスクが高く、この2週間はシャワーを使っていません。カトマンズに戻り、最初にしたかったことはサウナに入ることです。アカを落としクンブ咳を改善するにはサウナが一番に思えます。どんなに高級なサウナでも、2週間の山行の後のタメル地区の雑居ビルのサウナの方が、はるかにありがたく感じます。旅の効用は自らの片寄った環境を客観視して、世界を知ることであり、物珍しさを集めることではない気がします。

旅の投資的価値


エベレスト街道トレッキングの起点であるルクラにヘリコプターで戻りました。標高は2,840mあり、初夏の山岳リゾートの趣きです。空港に隣接するカフェのテラス席に出て、発着する航空機を眺めていると、背後には雪を抱いた巨大な山塊が迫り、起伏の激しいこの国の景色はどこを切り取っても絵になります。足元では露天商が店を広げ、ロバの隊列が市場を突っ切ります。何の役割も持たない自分は、ただ漂白の時間に身を任せます。さわやかな風がほおをさすり、ついつい睡魔に襲われます。旅を投資的価値と捉える自分としては、この旅を終えたあと、具体的にどのようなアクションを起こせるかに全てがかかっています。この旅が人生のあり方にまで、示唆を与えたことは間違いありません。

50%の状況から結果を出せる


エベレスト街道の旅も終盤に入りましたが、エベレスト、ロブチェ登頂をめざすチームはここからが本番です。ロブチェのハイキャンプに上がる昨日になって、エベレスト隊4人のうち2人が、ロブチェ隊5人のうち1人が体調を崩しカトマンズの病院に搬送されることになりヘリが呼ばれました。一方で良い知らせは20日の朝にヘリで下山しカトマンズの病院に入院していたロブチェ隊の17歳の高校生が退院して原隊復帰したことです。5,500m超での高度順応と、大量の水分摂取による眠れない夜、全員がほぼ症状の出るクンブ咳、キッチン隊が携行する食材と栄養素の偏り、連日の疲れの蓄積は徐々に全員の免役力を奪い、ちよっとした亜影響が高熱の原因になります。登山家とは、50%の状況から結果を出せる人のことかも知れません。

生存領域へ


一般客は滞在が難しいエベレストベースキャンプでの生活は4泊5日に及び、途中で高度順応をかねてカラパタール東峰に登りました。EBCはエベレストを間近に望むイメージがありますが、高台にあるヘリポートからわずかにその先端を望む程度の遥かなる山です。カラパタール東峰はプモリの登頂ルートにあたり小一時間で登れる丘に見えて、5,500m超の薄い空気が倍の時間を要しますがそこからのエベレストは絶景です。しかし、ここに至って全員が、クンブせきと高山病の洗礼を受け、ベストな健康状態で登るなど幻想に過ぎません。この限界環境からさらにゼロ富士登山に挑むようなものです。昨日は世界最高所のEBCから標高4,910mのロブチェに向け下山を始めましたが、空気が濃くなり体調がもどることを期待したいものです。

人生の目標を明確にする場所


20日7時前にロブチェ登頂隊の17歳の高校生が体調悪化のため下山することになり、EBCのヘリポートまで送りに行きました。学校と交渉し、アルバイトとクラウドファンディングで資金を作り、来年は史上最年少のエベレスト登頂を目指すと宣言していました。同行するエベレスト登頂隊を率いるのは自身のエベレスト登頂8度の成功に加え、日本人100人以上をその頂きに立たせてきた第一人者です。驚くのは、サポートに入るのが、社会人2年目の23歳ということです。エベレスト街道を歩けば、すぐに人生が変わることはありませんが、こうした若者の姿に刺激を受け軌道修正をすることはできる気がします。自分も新たな目標が持てるかもしれません。エベレストは人生を変える場所ではなく、人生の目標を明確にする場所かもしれません。

自然と不便を受け入れる


1 9日はエベレスト登山の安全祈願のプジャがベースキャンプの中央に設置された祭壇で行われました。お互いの顔に粉をつけ、酒を飲み踊る儀式なしに登頂することはありません。雪の舞う屋外での儀式とは対照的に、暖かなドーム型のダイニングテントは、産業化されたラグジュアリーホテルが作り得ない贅沢です。8,000m峰を眺めながら軽快な洋楽が流れ、温かいエスプレッソを伴う朝食に漂う静かな高揚感は、日本ではブームとして消費されたグランピングの最終形に見えます。客が自然と不便を受け入れ、自らも挑戦することにより到達するラグジュアリーこそが現代的な商品だと思います。屋外の魅力を多少付加した程度の中途半端さがブームを短命にした気がします。今最も関心があるのがオフグリッドキャビンですが、回復可能な範囲で人が自然を楽しむ観光のあり方を支えるべきは、様々な先端技術を持つ日本だと思います。

快適なEBC


四方を8,000m級の山々に囲まれるエベレストベースキャンプは、夜中には静寂が支配し、無数の星が夜空を埋め尽くします。深夜には3度ほど雪崩のゴーという不気味な音で目が覚めます。気温は氷点下12度でテント内のナルゲンボトルの中身も凍りますが、厚手の寝袋とダウンジャケットで快適に眠れます。唯一の問題は、大量に水分を摂るため2時間おきに通うトイレテントで、足場が悪く死亡事故も起きています。標高5,000mでは酸素は日常生活の半分になり、トイレから自分のテントに戻るだけで息が切れます。富士山はもちろん北岳でも高山病に悩まされていたのに、今回は4,000mを超えたあたりで軽い頭痛が起き、食欲不振で一度おかゆにした以外好調なのは、水分を多く摂り、なるべく夜寝ないことを忠実に行った成果だと思います。

終わりなき極地観光


カトマンズ到着から11日目にして、今回の旅の目的地であるエベレストペースキャンプEBC5,364mに来ました。世界中から登山隊の集まる国際色豊かなEBCは、おそらく一般観光客が到達できる極地と言えるでしょう。隊のなかで完全な健康を保っている人はほぼ無く、極地観光の過酷さは生存競争の様相を呈しています。極地観光の魅力は人類の生存が難しい未踏の大自然ですが、一方でその魅力とラグジュアリーな旅を共存させるラクスペディションが流行ります。しかし、ラグジュアリーが成立する段階で、もはやそこは極地ではなく矛盾が生じます。ヘリコプターで到達することはできますが、ラクスペディションは終わりのない焼き畑農業の罠にハマっているような気がします。

グランドツアー的な贅沢


エベレスト登頂隊はシェルパを含む総勢30名近くを賄う食事や生活用品、キッチンテントなどの必要な資材を村々で動物を変えながら運び、かつての英国のグランドツアー的な贅沢な旅行を彷彿とさせます。とはいえ移動手段は自分の脚であり、宿泊施設は貧弱です。それでも体調が悪ければ馬にも乗れますし、われわれのチームでも歩行距離を大幅に削るヘリの活用が検討されています。近年ラグジュアリーの定義は変わり、ステレオタイプの贅沢さは避けられるようになりました。他方で前時代的な贅沢と自分の肉体を融合させた旅行は、希少性の観点からも人々から一定の支持を受ける気がします。

贅沢な高地トレーニング


標高2,850mのルクラからエベレスト街道を歩き始めて7日目となり、昨日は高度順応のために4,830m地点まで上がりました。ヨーロッパアルプス最高峰のモンブランの標高(4,805.59m)より高いことになります。楽しみにしていたのは、4,000m超の高地トレーニングで、身体の赤血球数を増加させ、酸素運搬能力が向上し、心肺機能も高めます。明日のロブチェ(4,910m)を経てエベレストベースキャンプ(5,364m)には、日程が変わり3泊する予定です。これほど贅沢なトレーニング機会もありませんが、日々体調を崩す人も増えます。そんななかで3度も訪れたロブチェでの温かみのあるカフェの存在はありがたく、連日酷使された身体を弛緩させてくれます。

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