昨日は伊豆半島に来ました。波の打ち寄せる海岸線を歩き太陽が照らす海水面を眺めるだけで転地療法的な刺激を受けます。道の駅伊東マリンタウンにあるヨットハーバーの海水の透明度は信じられないほど高く、コバルトスズメの群れが泳ぐ海底まではっきりと見渡せ、もはや水族館と言えるレベルです。海岸沿いの地形はどこも美しく、まとまりのある建物さえ建っていればコート・ダジュールのような世界的な海岸保養地になれたと思います。惜しむらくは一貫性のない即物的な使い捨て経済が、まとまりのない建物の林立する破壊的開発をしたことです。伊豆のような半島経済は観光需要への依存が高く、自然と調和する景色こそが最大の資源ですが、個々の事業者は自身が景観を作っている意識が希薄です。消費者が審美眼を持たない限りそれでも事業は成り立ってしまい、一貫した文脈と細部へのこだわりは事業者にとっての無駄な投資になります。選択肢がなければ消費者は間に合わせの商品に飛びつくしかなく、事業者も収益効率を優先する限り細部へのこだわりを持たず、結局イノベーティブな商品は既存事業への怒りからしか生まれないのかもしれません。
知られざる樹木の世界
週末は小菅村にある栃の巨木コースに行きました。パンフレットを見るとハイキングコースのように錯覚しますが、多摩川源流トレイルランレースのコースの一部であり、登りもそれなりにハードで滑落すれば危険な登山道は家族連れには向きません。推定樹齢650年と言われる栃の巨樹は、甲子高原の旅館の近くにある樹齢200年以上の栃の木より二回りほど大きくその存在感に圧倒されます。巨木の多くは樹高が災いしてたいてい落雷か強風で倒れるか人により伐採されますが、現存する木はどれもそのリスクの低い目立たない谷筋にあります。東北には巨木が多く、見た中では会津若松に近い田んぼの真ん中に忽然と姿を現す高瀬の大木(ケヤキ)は樹齢約500年とされ、樹高こそ24.64mと高くないものの根元の周囲は12.55mあり、その威容はもはや木とは思えません。日本人の多くは無宗教ですが巨木に神聖さを感じ崇めるのは、そこに生命の神秘を感じるからでしょう。屋久杉のように樹齢1,000年を超えるとなると、もはや不死の生命体と言ってよく、われわれは身近にある樹木の世界をほとんど知らないのかもしれません。
手軽さの代償
昨日は奥秩父縦走路にある将監小屋のキャンプ場にラブラドールと泊まりました。30kmほど歩いて到着したときの達成感は旅の醍醐味と言えるでしょう。夕方は雷鳴が轟き、夜は澄み切った空に美しい三日月が浮かび、森の奥からは野生動物の声が響きます。インスタントの味噌汁がこの上なくおいしく豪華な料理は何も要りません。グランピングブームにあまり魅力を感じないのは、手軽なキャンプとは都市の贅沢さをそのまま自然のなかに持ち込むことに他ならないからです。テントで泊まれば、寝心地は悪いし夜露で不快な思いもするし、料理は粗末ですがこれで十分と言う謙虚さを思い出させてくれます。手軽さの代償は多くのものを失い、とりわけ身近な幸せに感動し気づくと言うことを無視します。自動車で都市生活の便利さを持ち込むのではなく、自分で運べる荷物の範囲で生活することにむしろ贅沢さを感じます。スーパーで買ったバームクーヘンで過ごす食後のお茶の時間がこの上なく贅沢に思えるのは、自然のなかで過ごすことで欠乏こそが人間らしい生活のデフォルトだと気づくからだと思います。ブナ林の枯葉の地面の上に寝転がって空を見上げることなど小学校以来のような気がします。
ワンフレーズ政治の軽薄さ
下馬評通り岸田総理が順当に誕生しました。良く言えば安定的であり、ファンもアンチもいない無難さが国難の日本をどのように舵取りするかが注目されます。義理としがらみで年額4,000円の党費を払いテレビしか見ない典型的保守層も、度々主張を変え、ファミリー企業問題を抱える知名度だけの政治家の危うさに気づいた人は少なくないでしょう。思えば大半の有権者は候補者の政策も人となりも知らずに投票してきました。ドルベースなら四半世紀マイナス成長の底なし日本の非常事態を救うには、明確な国家観と安全保障、経済政策が最優先だと思います。今回の総裁選が久しぶりに意義深く感じられたのは、明確な主張をする女性候補の存在があったからで、久しぶりに国家のグランドデザインを政治家の口から聞いた気がします。思考の結果ではなく好き嫌いとまわりの空気で政治家を評価する情報弱者はSDGsや女性参画、環境問題をファッションのようにワンフレーズで一面的に扱う劇場型政治の軽薄さに気づきません。自分が総理になっても女性を積極的に活用することはないと明言していた高市氏が、結果的に女性の活躍を最も印象づけたことこそ真実味を帯びます。
都市を自然に持ち込む愚
昨日はDom’up camp village那須高原に伺いました。3年ほど前に訪れた時は背丈ほどの藪が生い茂る荒れ地でしたが、下草を刈り枝打ちをしてから公園のように美しく生まれ変わりました。かつては人手の入った雑木林が長く放置されていた場所ですが、キャンプサイトがゆったりと配置された広場でコーヒーを飲みながら心地よい風に吹かれていると、アメリカのゲストランチにでもいるような錯覚にとらわれます。せっかく自然のなかに出かけながら駐車場のように詰め込まれたオートキャンプ場やキャンピングカーで満車になる道の駅を見ると、言われるままにお仕着せの商品を買う味気なさを感じます。キャンプの醍醐味は朝夕で表情を変える自然の風景と情緒だと思いますが、密集する住宅と狭い空しか見えない都市を抜け出しながら自然の元に来ても同じことをする消費行動は疑問です。オーバーツーリズムは観光が抱える古くからの問題ですが、皆が同じ場所を目指す工夫のなさと、休日への需要集中もあり事業者が売上至上主義を取ることが原因でしょう。放置された森に人が関わることで、環境保全とビジネスを両立しながら自然豊かな場所ならではの楽しみ方を提案することは可能だと思います。
都市に住む必要が薄れる
イギリスにいる娘が大学の寮を出て割安な一軒家を香港、イタリアの友人とシェアしていると言います。部屋の写真を見ると質素ながら落ち着きを感じます。イケアで家具を揃えるとそれらしい部屋ができますが、欧米へのコンプレックスなのかどこか日本の住宅にない品の良さを感じます。ロンドンにしても大学のあるブライトンにしても街並みが美しく、現代の日本ほど住宅と街並みを軽視する国はないと思います。夏に立山に行ったとき、新幹線の車窓から見る貧相な風景が富山に近づくに従い落ち着いたモノトーンの景色に変わったことが印象的でした。白川郷や妻籠宿など戦前の風情を残す景観が観光的価値を持つ反面、悪夢のような建売住宅が密集する都市の光景は一貫性もまとまりもなく、今となっては戦後復興のバラックそのままの方がむしろまとまりがあります。住宅街は芸術的なまでに密集して建てられた陽も当たらない建売住宅によりスラム化し、日本人の住宅への意識とこだわりのなさが街並み破壊してきました。唯一の希望はコロナ禍で過密都市に住む必要が薄れることでしょう。
不眠症は嘘?
以前は眠れない悩みがありましたが、眠れない日は眠ろうとせずに日中と同じように過ごすと、2、3時間の睡眠の日でも普通の生活ができ悩む必要がないことに気づきます。睡眠は個性的で食べたくない日があるように、眠れない日は無理に眠る必要がないと思います。昨夜も0時前にラブラドールがごそごそしているのに目を覚ましそのまま長野県から東京に移動しました。深夜なら一般国道を使っても高速とそれほど移動時間は変わりませんし、夜中に移動ができると一日を有効に使えます。もともと短眠の傾向でしたが、食事の回数を減らすと睡眠時間が短くなることは少食の人からは異口同音に聞かれます。世の中には知られたくない真実があるもので、7時間睡眠長寿説のような健康常識は悩みを生み出すために利用されていると思います。武器を売る人がいるから戦争が起きるように、薬を売る人がいれば病気が増えるのと同じで、眠れない人を不眠症の患者にしないと睡眠薬が売れなくなります。病床が増えると病人が増え、医師が増えると生活習慣病が増えることを見ると、医学や栄養学、健康常識もお金を取るために悩みを生み出すことに利用されているのでしょう。
信仰の山は時代を超える
昨日は甲斐駒ヶ岳(2,967m)に登りました。深田久弥も日本十名山を選ぶならこの山は落とさないと言ったとされ、独立峰のような山の形は神々しく近づきがたい威容を誇ります。竹宇駒ケ岳神社から標高差2,200mを上がる黒戸尾根は急登が長いだけでなく、後半に、ハシゴと鎖の連続するスパルタンさからハイカーには敬遠されるルートで、静かな山歩きを楽しめます。神社の裏手から吊橋を渡り樹齢数百年クラスの巨樹の森を抜けるとやがてブナ原生林が始まり、さらに高度を上げると苔むした美しい庭園が続き、後半は垂直に登り一気に高度を上げる変化のあるトレイルは長くても飽きません。開山以来歩き続けられて来たルートは登山道というよりは参道のように美しく、しかし後半は垂直の岩をハシゴや鎖で高度を稼ぐ修行の道です。登山道具もない時代の祖先が人を寄せ付けない巨石の壁に挑むことは、神に近づく行為だったのでしょう。1907年に陸軍参謀本部の命令で測量のために初登頂したと思われていた剣岳の山頂では平安時代初期の錫杖頭が発見されました。整備された登山道を使うわれわれも、峻険な山に分け入った行者と同じ景色を見ているはずで、信仰の山は時代を超えることができます。
日常の食事こそが偉大
スーパーで買えるキノコの種類が豊富で安いことは長野県にいるときの喜びです。キノコ汁を東京で作ろうとするとスーパーに売っている全種類のきのこを買う必要があるのとは対照的です。これに玄米と納豆、冷奴があれば他には何もいりません。ついでにオリーブオイルで焼いたバナナのデザートがあれば自分的にはフルコースです。もともと食べる回数が少ない上にこれらはいずれもパックから出すだけで料理とさえ言えないお手軽さです。平凡な日常食は、とても毎日は食べられないような豪華な料理とは違い飽きません。毎日食べられるものこそ本当に好きなものであって、食べた横からあれが食べたい、これが食べたいと自ら幸せのハードルを上げるより、毎度の食事に感謝をして心の平安を得ることは気持ちを豊かにします。「ごちそうさま」と食後に手を合わせて食事を終える習慣が身ついたのは、恥ずかしながら比較的最近のことです。以前は毎日の食事など気にもとめず有り難いとも思いませんでした。粗食にしても食べる楽しみを失うことがないのは、美味しく感じられる日常の食事こそが真に豊かで偉大だからでしょう。
人生の半分を過ぎてからできるようになること
昨日は西岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳のミニ縦走に行きました。昔なら赤岳は泊りがけで行く山でしたが、トレイルランニングなら日帰り圏の山に含まれ、午前中に帰ることも可能です。昨日の消費カロリーは3,646kcalですが体がケトン体を使えるようになると途中で行動食などの補給をする必要がなくなり7時間40分をノンストップで歩けます。若い頃は1時間おきに休んで補給をしましたが、先週行った仙丈ヶ岳でも9時間20分間運動を続けてもエネルギー切れになることも補給の必要もありません。世界最高峰のトレイルレースのUTMBを2年連続でマルコ・オルモが58歳と59歳のときに優勝できたのは、彼の体がケトン体を有効に使えたことが関係していると思います。更年期を過ぎた体が、頻繁に補給が必要な解糖系からケトン体系エネルギー産生回路に変わることは若い選手に対するプレゼンスになります。若いときの体ではできなかったことが人生の半分を過ぎてからできるようになることは痛快です。空腹時の運動はミトコンドリアや長寿遺伝子を活性化する上でも有効とされ、下山後の食事が美味しくなることは言うまでもありません。