普段の料理は妻任せですが、作り置き惣菜やロールキャベツ、餃子、カレーなどを作ります。調理器具が充実していた旅館時代はスパイスからカレーを作っていましたが、今は業務スーパーで買った業務用ルーを使います。ホテルのような味わい深いカレーをイメージしつつスパイスを追加してそれらしく作ります。前日から仕込むことが重要で一晩寝かせて食材が溶け込み成分を安定させることで野菜だけでも本格風の味になります。料理は家事であると同時に、自分のイメージした味に近づけていく探究心を満たすクリエイティブな趣味だと思います。美味しさと同時に追求するのは食材の持つ薬効です。カレーのスパイスは漢方の生薬と同じであり一種の薬膳料理です。多数の香辛料を使うために免疫力を高め老化予防になります。カレー粉のウコンの成分に含まれるポリフェノールのクルクミンにより血管や脳が若返り、インド人のアルツハイマー発症率はアメリカ人の4分の1とされます。免疫力を高めるにんにくやごぼうを加えたカレーは、美味しさと健康を両立する手軽な薬膳料理だと思います。
お知らせ
お仕着せサービスより完全オーダーメイド
表参道うかい亭で食事をしました。旅行中を別とすれば我が家が完全自腹で外食をするのは近所のカレー店に年に1、2度行く程度で、あとは株主優待で行くスシローとうかい亭ぐらいです。勉強のために行く外食店はありますが、楽しむための外食をほとんどしなくなりました。以前は世間並?に外食に出かけましたが、昔ほどに楽しめないのは他人の作った料理が体に合わなくなったからだと思います。昨日食べたサーロインはとても柔らかいのですが一切れ食べれば十分でそこから先は苦痛に近い感覚があります。ガーリックライスも良質の油を使っているのに、にんにくの香りが移った油を捨ててしまうのは見ていてもったいないと思います。おこわのようにしつこくないのが店のこだわりだそうですが、それなら先程の肉はどうなのかと違和感を覚えます。店のこだわりは結局お仕着せサービスであり、人にサービスをしてもらうことも不快ですし、自由に振る舞うことができません。完全オーダーメイドで好きなものを好きなように好きな雰囲気で食べられるのは自宅の食事だと思います。
想定外という新たな可能性
昨年末から解体工事を始めた甲子高原フジヤホテルを見に行きました。再建の目処が立ったわけではありませんが、補助金を受ける場合は積雪で工事ができない期間も含めて1年以内の事業期間が求められることから見切り発車することにしました。皆が補助金をあてにするようになれば社会に依存が生じます。「使わなければ損」的な発想は決算期が近づき税金を1円でも下げたいから経費を使うのと似て後ろ向きの発想です。他方で、補助金があるからこそ思い切った挑戦ができることは大切でしょう。イノベーションには2つのパターンがあって、セーフティネットがあるから起こすものと、本当に切羽詰まって火事場の馬鹿力により生じるものがあると考えられます。イタリアと並び起業比率が低いとされる日本では、多くのサラリーマンが給料をセーフティネットではなく、特権的に保障された身分の安定と捉えるのかもしれません。旅館を買った5、6年前にはこんなに早く解体する日が来るとは思いませんでしたが、想定外という新たな可能性を楽しむことがイノベーションの孵化器になるのでしょう。
いずれ自分も被害者に
昨日は人影のない会津東山温泉に泊まりました。古い旅館ながら、レセプション回りやフリードリンクのラウンジ、浴室などそれなりに力を入れて改装しているのに、客室階4フロアのうち1層でさえ埋まっていないのは気の毒と言うしかありません。夕食がついて一人で泊まって払いきり5,500円という破格の値段に至っては、気軽に自粛しろという人への憎悪さえ生まれます。夕食を取る客は2名だけですので、館内で調理するはずもなく、夕食は仕出しですが食器が立派なので体裁は整います。滝のように流れる温泉や十分にきれいな施設、過不足ない設備などを考えるとやるだけ赤字です。怖いのは疫病ではなく扇動された群衆心理です。10年おきに起こる疫病騒動の恐怖を考えると、誰もこの業界でビジネスをやりたいとは思わなくなるでしょう。零細事業者が多く業界の組織力の弱い飲食、宿泊業はスケープゴートにされます。毎年インフルエンザで数千人が死んでいるときは誰も問題にしなかったのに、扇動に乗せられてヒステリックに反応するなら、いずれ自分も次の被害者になることに、多くの人は思い至らないのでしょう。
いい子は恥ずかしい?
昨日はラブラドールが下痢をして病院に行きました。生まれてこの方、決まった時間に同じ餌を食べているので、普段は規則正しく良好な便が出ます。人間とは違っていつもご機嫌で、よほど調子が悪くても自分では伝えません。甘えるように鳴くのは餌を食べたいときで、いつもの時間に欲しがらない日は要注意です。言葉で伝えることができないので行動の変化に気をつけます。山などで脚を少し引きずっているときはすでに肉球が破れて血が流れていたりします。人間なら気絶しかねない痛さだと思うのですが、文句も言わず健気に人に従います。日帰り百名山の最難関とされる平ヶ岳で熱中症になったときも、フラフラになりながら結局最後まで自分の脚で下山し、担架で運んだのは体を冷やした川から駐車場までの2、300mだけです。言葉を話さない犬は行動が全てですが、他方で人間は、言葉は誠実でも行動は不誠実な人が多いと思います。人から批判されることを恐れてか、誠実そうに振る舞うことを強要される世の中になりました。SDGsバッチに違和感があるのも、自分からいい子を演出する態度にどこか恥ずかしさを覚えるからです。
普通に生きるとカウントダウンが始まる?
昨日は久しぶりに株主総会に行きました。妻が証券会社勤務なので株取引には一定の制限を受け、わずかな銘柄を長期保有しています。好きに株式投資ができない不便さは短期の損得に執着せずに済むのでかえって好都合です。企業の将来性を占う有効な材料は経営者とマネジメントチームの力量を見ることだと思います。経営者に会える株主総会の質疑応答は、企業の生命力とも言える経営者の思いや姿勢を知る手がかりになります。その会社に関して言えば、当初の先鋭化された商品が徐々に影をひそめ、普通の企業になっていくことが気になっていました。一人一発言の制約では、十分な意思疎通は難しく、ほとばしるような生命の息吹を感じるには至りませんでした。会社が成長して大きくなると良い条件で仕入れができるなどビジネスは安定しますが、他方で創業時に持っていたストイックな理想追求の姿勢が失われていくと思います。人も企業も理想が衰退し惰性で普通に生きるようになると、命が尽きる時を告げるカウントダウンが始まるのでしょう。
命を奪うことなく暮らす
理想的なバランスで必須アミノ酸を得られる赤飯を炊く機会が増えました。小豆は、酵素を阻害する植物性ストレスホルモンのアブシシン酸を除去するために前の晩に水に浸けます。翌朝には小豆が膨らみ発芽しようとしているのが分かります。動物であれ植物であれ、食事をすることは命を奪うことを感じます。香港でもマカオでも市場に行くと生きた動物とその処理を目の当たりにしますが、日本では命を奪う屠殺が人目に触れることは稀です。それゆえわれわれは食べることに罪悪感を持つことなく気軽に食事にアクセスし、贅沢を善と考えます。人間の愚かな特性は手段が目的化することだと思います。生きるために食べるはずが、食べるために生きるようになります。時代の風潮に流されて、地位財を手にすれば幸せになれると錯覚することも同じで、結局は心身を蝕む生き方でしょう。人が生きること自体が他の生存を脅かすことであり、持続可能性などと綺麗事を言う事にも抵抗を感じます。誰にでも免罪符が必要な現代において唯一できることは、なるべく他の命を奪うことなく暮らすことでしょう。
ヴィーガン化はさらに進む
自分が年を重ねたと思うのは味覚が変わり、以前なら見向きもしなかった佃煮や漬物、湯豆腐が恋しくなるときです。一日の食事の回数が減り質素な食事でも感謝や喜びを持てることは好ましい変化でしょう。もう一つの変化は肉食をしなくなりパートタイムヴィーガンになったことです。人類が肉食になったのは250万年前の氷河期により樹木や果物が減ったことがきっかけとされますが、プラトンは肉食が始まり戦争が始まったと言います。現代栄養学のルーツであるカール・フォン・フォイトが唱えたカロリー理論と肉食礼賛を人類は100年以上信じてきましたが、今やどの街でもヴィーガンレストランを見つけることはできます。イギリス1部リーグのマンチェスターユナイテッドなどのチームが、炎症を助長し怪我のリスクを高める動物性食品を減らし乳製品をやめるなど、トップアスリートがヴィーガン化を強め、ネットフリックスのドキュメンタリー映画「ゲームチェンジャー: スポーツ栄養学の真実」も注目されました。肉食による腸内細菌の悪化は翌日の便で誰でも確認できますので、ヴィーガン化はさらに進むのかもしれません。
現代科学は人類史の異端
トンガ沖で発生した海底火山の大規模噴火による地球の寒冷化が農業や畜産業に影響し、食糧危機が起こると危惧する声があります。しかし戦後77年も平和が保たれた現代の日本において本気で飢餓を心配する人はなく、健康を脅かしているのはいつも食べ過ぎです。われわれが当然の権利と錯覚する、望めばいつでも食べられるという環境は、明らかに人類史における異端です。狩猟採集の時代には何日も獲物にありつけない日もあったはずで、そもそも猟に出るのは空腹を感じてからです。人体はお腹がすいてから猟に出て獲物を追って活動し、場合によっては何日も食べられない生活に順応しています。「空腹⇒活動⇒食べる」が生物本来のサイクルですが、「空腹=食べる」を奨励してきた愚かな現代科学が、テロメラーゼやオートファジーの証明により紀元前の知恵に追いつき、飢餓こそが健康の鍵だと気づいたのはわずか20年ほどのことです。たかだか数百年の歴史しかもたない現代科学こそ人類史の異端なのでしょう。
自由は欠乏の裏返し?
妻が冬山訓練で富士山に行き、東京の寒い家に一人でいると自由を感じます。最も自由を感じる時は好きな時間に寝ることでもアマゾンプライムを見ることでもなく、好きな時間に食べることです。好きなものを食べる自由ではなく、好きな時間に食べることが重要です。すなわち、食べることも食べないことも選択できる自由です。現代人の脳は食べないパラダイムに慣れていないために、食べない自由に心地良さを感じません。しかし、何でも買える自由よりお金から自由になることが重要なように、何でも食べられる自由よりは食べることから開放されることが本来の自由だと思います。その理由は、前提条件が満たされればという制限付きの自由は本当の自由ではないからです。もう一つの理由は、お隣の国の汚職官僚が何兆円も蓄財しようとするように、欲望には際限がなく、金を持つほど金に汚くなり、食べ過ぎなのにまだ食べようとするからです。表面的な自由は欠乏の裏返しであり、結局は自分を縛り付けるだけなのでしょう。