快感がわれわれを支配している

夜中に夢を見ることは少なくなったのですが、今朝は激しい地震の揺れで目が覚めました。夢は自分の心理状態を示し、地震の夢は吉兆でもあり不吉な兆候でもあると言います。見る夢には一部実在の人物が出る(今朝の夢では会社)ためにそれが夢だとは気づかず引き込まれます。全くストーリーに脈略のない夢もあれば、かなり現実に近く自分の知らなかった真実が明かされることもあります。夢は過去の体験をつなぎあわせるので支離滅裂でも体験したことのあるものが登場し既視感があります。レム睡眠時脳が覚醒して海馬が過去の記憶を整理する際に見る映像が夢であり、いやなことを忘れる効果がありアユルヴェーダでは心や脳の浄化作用と考え、忘れれば過去はなかったことになります。夢には良い面もありますが、他方で脳が作り出す幻想のリアリティの高さに夢から覚めるたびに身がすくみます。あらゆる中毒は人を夢見心地にし脳だけが満足して体を蝕む状態です。食事であれ娯楽であれ脳の感じる幸福感はストレスやつらいことを忘れさせてくれる反面、報酬回路が刺激されドーパミンが異常分泌して作り出す快感がわれわれを支配しているのでしょう。

偉大なのはプラシーボだけ

カレーやコーヒーにココナッツオイルを入れるのが好きです。かつてはアルツハイマー予防の特効薬ともてはやされ健康や美容に良いとブームになったココナッツオイルですが、近年健康に悪いとする主張が目立つようになりました。ココナッツオイルを熱心に持ち上げてきた信奉者の主張も、一方の不健康説の主張も性懲りもない科学的根拠の疑わしさと欺瞞を露呈しただけに見えます。ココナッツオイル不健康説は膨大な実験の結果、飽和脂肪酸が悪玉コレステロールを増加させると言いますが、その悪玉コレステロールは体に有益とする説もあり何も信じることができません。人類史における長年の習慣である空腹と運動、糖質制限は信用しますが、それとて行き過ぎれば健康を害し、長期的な影響は誰にも分かりません。この世に完全に証明された健康法など存在せず、それ故に信仰の力が必要になるのだと思います。一見明快に見える科学的な主張も、次々と矛盾する研究が発表され結局は信仰の一つでしかなく、偉大なのはプラシーボだけかもしれません。

執着の純度を増す時代

最近は車をあまり使わなくなり、日本工学院に行く水曜日は貴重な機会です。わずか75馬力しかないフィアットはこれまで乗った車のなかでは最短で14万kmを走り一番愛着を感じます。たまにかける洗車機以外に手入れをすることもなく、車よりもむしろ運転が好きなのでしょう。そのためか次に乗りたい車が思い浮かびません。強いて上げるなら免許を取った頃の車でFiat 131のアバルトなどはその代表です。昔の車であれば変に執着もわかずその時代をリアルに取り戻せる回春効果があると思います。機械と人間の関係を考えると今は幸せな時代ではなく、どこかで時代の歯車が狂い最新が最良ではなくなったと思います。今ほどあからさまに豪華になり、歯止め無く車の馬力が上がる時代は執着の純度を増しただけで個人的な思い入れの対象にはなりません。最も幸せと感じたのは車なら1980年代ですし、パソコンならほとんどの操作をショートカットで動かせたOffice 2003の時代でしょう。もちろんこれは年代による違いでしょうが、5G、6Gと進む社会は人間の幸せとは違う尺度で進歩しているように見えます。

猫のひたいがもたらす充足

人より優位に立ちたがる人間が内面に屈折を抱えるように、贅沢な生活を求める気持ちは貧しさの裏返しだと思います。幕末の日本に来た外国人が彼らの基準では貧しい日本人を見て、そこに卑しさや惨めさが微塵もなく、生き生きと生活する姿に驚いた記録が残ります。生活を貧しくするのは、執着により次々と買う贅沢が目的化していつまでも満たされない虚しさであり、日常を豊かにすれば贅沢願望から開放されます。毎日の食事を豊かなものにするのは空腹で、体を健康にしてくれる上に美味しく食べられる空腹は我慢ではなく楽しみに変わります。かつての住まいにあった庭が無くなり、生活に潤いをもたらす植物は玄関横の猫のひたいほどの花壇だけになりました。それでも花を楽しみ収穫したフレッシュハーブをお茶に入れ、植物の成長に日々生命力を感じ、日常を豊かにする恩恵はむしろ庭があったとき以上です。最小限で過ごすことに妙な魅力を感じるのは、人が恩恵を受けるには自分に適したサイズがあり、過剰をそぎ落とした清楚で質素なモノの不足した生活にこそ心の充足を感じるからだと思います。

欠乏による幸せ

一日二食以下生活を始めて体重は学生時代以下を維持し、他方で体力はむしろ向上しています。三食時代より食事が美味しくなり、幸福の定義とされる生活満足度が改善しました。欠乏への恐怖から人は常に満たされることを望み、その幻想は自分を満たしてくれる対象物に向けられます。対象物はお金や名誉、地位にも向けられますが身近なものは食事だと思います。しかし重要な点は食べるものに目を向けるのではなく、空腹により自分の感受性を高めることだと思います。大金を払うことで得られる幸福感も、期待値を下げることにより得られる幸福感も実は等価で、砂漠を彷徨った人がいくらお金を払ってでも水を飲みたいのと同じです。一方で産業側は常に人の期待値を引き上げようと画策し、空腹を悪だと信じる消費者のストレス反応は、企業が望む消費行動に走らせます。食べることを善と信じる消費者は満たされた後に感じる虚しさを無視しますが、この循環こそが生活習慣病の蔓延原因でしょう。欠乏、すなわち空腹を善と捉えるパラダイム・シフトを受け入れると、つきものが落ちるように他の執着も消え心も体も満たされると思います。

貯金より貯筋

普段の生活とさほど変わらない連休が終わりました。昨日も究極のマイクロツーリズムで世田谷近辺を25kmほどラブラドールと歩きました。最初に行った九品仏は深い緑に大木が佇む荘厳さがあります。自粛中のためか人影はなくどこからともなく漂うほのかな薫香もあって、その風情は鎌倉あたりの有料のお寺と変わりません。結局連休中は外食もせず、モノも買わず、こんな人ばかりになれば日本経済は崩壊しますが、それ故と言うべきか過不足ない休日でした。人々が例年連休にお金を使うのはお金が人生を充実させる道具だと考えるからです。一方でお金が人生を満たす道具だと思っているといくらあっても足りなくなります。人々は自ら計画的陳腐化の罠にはまり、高級品になるほど執着を生み、やがて時限装置により満たされないように作られている現実を忘れます。お金には税金のような必須のものもあれば将来の不安に備える貯金もあります。将来の不安を考え始めると同じようにいくらあっても足りません。必要なことは体を鍛え、お金に頼らず元気でいられる貯筋に楽しみながら励むことでしょう。

餓死しない時代の夢の燃料

運動不足解消のため、昨日はラブラドールと三田のイタリア大使館まで30kmほど歩きました。いつも通り朝食を抜いているので運動後の昼食の美味しさは格別です。満足は期待値との乖離ですので、餓死しない時代の空腹は快感になり得ます。しかしそれがアダになり、糖質中心の昼食を摂ったためにインシュリンの過剰分泌から、夕方になると低血糖でめまいに襲われます。空腹時に糖質を摂ればその後起こる血糖値スパイクは道理です。一方糖質を摂らなければ、山などで40km以上行動することがあってもエネルギー不足に陥ることはなく、昨日もどこまでも無補給で歩けそうな感じでした。試しに糖質を摂取すると2、3時間でエネルギーが枯渇して動けなくなります。糖質制限により脂肪酸を分解したケトン体を作り出すことができれば無限に近い距離を無補給で移動でき、逆に糖質を摂ると短いサイクルで糖質の補給が必要になります。糖質こそがエネルギー源との長年の信念を崩しこの結論にたどり着くまで時間がかかりましたが、ケトン体由来の長寿遺伝子サーチュイン3はミトコンドリアの働きを活性化し同時にDNAの修復も進める夢の燃料になります。

食べた後の虚しさ

消費を抑制する壮大な社会実験が月末まで延長され、同調圧力と先行き不安から消費はさらに落ち込むかもしれません。今年2月に公表された家計調査によると消費支出(総世帯)は前年比6.5%の減少となりました。コロナ禍のスケープゴートにされた外食業界には申し訳ないのですが、外食の自粛が健康に及ぼす影響に興味があります。外食費の比率がOECD加盟国のなかでは低く、食事を自炊する傾向が強い日本ですが、昨年の総死者数が実質3万人減少したように、自粛生活は日本人の健康を改善している可能性があります。飽食時代のライフスタイルにおいては食べないメリットの方が大きく、健康リスクの高い古い油や砂糖を摂取する機会も減ります。家での食事は食べ過ぎるリスクが少なく、満腹になったときの罪悪感と虚しさを味わわずに済みます。外食の場合、注文時と食べるときの時間差に満腹中枢が働き、料理が出たときには満腹ということがあり、残すことを良しとしない日本では食べ過ぎになりがちです。外食に熱狂できない理由は食べた後の虚しさを避けたいからかもしれません。

意味を再構成するブランド

村上開新堂のクッキーをいただきました。明治元年(1868年)に村上光保が国家政策の一環として洋菓子製造技術習得を命じられ、日本で最初の洋菓子専門店を営んだことが村上開新堂の始まりです。以来153年、現在6代目の歴代当主が工夫を重ねストイックに味の追求をして来たと言います。量産体制は味の低下を招くことからデパートの名店街などへの出店も断り、広告費用は味の向上に使う思いから行ないません。明治の欧化政策の象徴である鹿鳴館において洋菓子一切の製造を担当してきた日本洋菓子史そのものです。7千円というクッキーの値段にも驚きますが、転売屋の手を通すと3万円に跳ね上がり、今どき登録された顧客の紹介でしか買えず、以前は数ヶ月待ちだった予約は1年前に埋まるそうです。この背景を知るなら有り難く食べ、知らなければ古風なクッキーとして食べてしまうかもしれません。商品を評価する感情や記憶は客観的な知覚情報ではなく、入手できる全ての情報に影響を受け意味を再構成します。その偉大な歴史への賞賛、尊敬なしにはブランドは成立しないのでしょう。

ほしいものが、ほしいわ。

コロナ禍で迎える2度目のゴールデンウィークの人出は高尾山や江ノ島では昨年の4倍を超えました。Intageの調査でも今年のGWに消費する平均金額は昨年から21.5%増の15,908円となり、一昨年の28,178円の56%まで回復したものの依然道半ばです。連休に使ったお金は日常的な食料品の買い物だけで昨日は都立砧公園までラブラドールと散歩をしました。物心両面で満たされているわけでもないのですがかといって過不足もなく、かつての西武百貨店のポスターのキャッチコピーのように「ほしいものが、ほしいわ。」という心境で商業施設にも足が向きません。このコピーが話題になった1988年には、もちろん達観しているはずもなく、お金を使うことの意義を疑うことなどありませんでした。しかし大いなる誤解は、幸福は未来のある地点に存在しこれから幸せになるという思い込みです。今この瞬間に感じるものが幸せであり、将来に含みを残すものではないと思います。人為的に作り出された理想を追う生活では内面が満たされることはなく、消費者は欲望の奴隷になるだけでしょう。

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