80円でそこそこのレストラン

私の周りではコロナ禍の東京を離れる人が目立ちますが、東京を離れるメリットのひとつは食材へのアクセスが改善することだと思います。福島にしても長野にしても野菜が安く、夏場の食費の安さは劇的とも言えます。昼食を食べない日が多いのですが、昨日はどうしてもお腹が空き、自分一人なのでサバとズッキーニのサラダを作りました。甘いズッキーニは5本で100円と東京の5分の1の値段で、食材原価のほとんどはサバ缶ですがそれでも料理原価は80円ほどで、そこそこのレストランと遜色ない美味しさです。森の木陰で食事をする贅沢さに追加のお金は必要なく、質素な料理でも特別なランチになり、そんなロケーションの土地は移住条件に合致すればただで用意してくれる自治体もあります。何かにつけ昨今は暮らし難さばかりが語られますが、都市型ライフスタイルの洗脳から解放されると、労せずに幸せを手に入れる方法は非現実的ではありません。人の密集する都市を狙い撃ちしたかのような疫病騒動は、都市的な幸せを前提にした人生の形をも変えようとしているように見えます。

全ては幻想であり錯覚?

昨日は久しぶりに独りで早朝の八ヶ岳に登りました。独りで登るメリットは自分の身体とじっくり対話する内省の時間を持てることです。古来より修養としての慎独の大切さが語られてきましたが、世間では人と時間を分かち合う楽しさばかりが誇張され、反面ひと目ばかりを気にして気を病む人も少なくありません。最初に入った会社の寮の名前が慎独寮で愛着のある響きですが、集まってバカ騒ぎをした印象しか残っていないのは無理もないことでしょう。しかし今は、独り慎み心身の内面に弾力を持たせることで人生をより深く味わうことができると思います。人生は肯定的な面ばかりでなく、否定したくなる局面も等しく尊い味わいがあるはずです。快楽偏重社会は人々の欲望と直結し、その弊害はマネーシステムばかりでなく、宗教や政治、経済といったあらゆるシステムを嘘で覆い、真実と安らぎを感じることができるのは虚無主義だけです。しかし、世界のなかに自分がいるのではなく、五感を通して電気信号を受けた脳が、自分の中に世界を作り出しているなら、全ては幻想であり錯覚だと悲観する必要もないのでしょう。

不快な快適さ

東京の夏は例年ほどの酷暑ではなく過ごしやすいように感じます。それでも夜中に扇風機が止まると寝苦しさで目が覚め、この季節は寝不足になります。クーラーをつければ朝まで起きることなく眠れますが、身体が冷やされる不快感を思うと、多少汗ばんで眠れない方が意識の上では快適です。この違いは快適さを生理的に捉えるか感覚的に捉えるかの解釈の違いで、快適な不快さを選ぶか不快な快適さを選ぶかの違いです。この感覚は食べたあとの不快さと何も食べないときの爽快感のどちらを選ぶかにも似て、どちらが人体の設計のデフォルトに沿ったものかを判断基準にすると世間的な風潮は逆転します。飽食時代の皮肉は、われわれが口にするほぼすべての食物は例外なく何らかの毒物に汚染をされていることです。重要なことは自分の思考の主体は誰かを問うことだと思います。脳は自分の所有物に見えて実態はその逆で、脳は人を操り支配します。誰もが幸せの根拠を自己の本質に置こうとしますが、その本質の主が誰であるかは曖昧なままかもしれません。

最高条件は絶滅条件

人がどれだけ食べずに生きられるかに関心があります。一日一食でも普段の生活に支障はありませんが、北アルプスで一日活動をすると2、3,000kcalのエネルギーを消費するはずですが、山での食事は普段よりむしろ少ないぐらいでもエネルギー切れは起きません。人体は体内合成によりエネルギーを自給しているはずで、その不思議なメカニズムに無限の可能性を感じます。多くの人は食べることに関心を向け、食べないことに関心を持つ人は少数です。今でも多くの人が飢餓で命を落とす反面、一日300kcal前後で肉体を賄う数十万人のライトイーターが元気に暮らしている事実には興味が尽きません。間違いないのは、欲望の開放を無制限に許容する消費社会が不健全なことです。生態系の頂点に立ち最高条件を謳歌する人類の行く先はかつての恐竜と同じ運命だと思います。無補給でどこまで行けるかは、どこまで消費せずに生きられるかというテーマにつながり、絶滅を避ける方法は人体の可能性を封じてきた思考を変えることでしょう。

糖質ワールドからの離脱

メダルの数ほどにはオリンピックの実感がないのは無観客の開催国という不思議な状況だけが理由ではないと思います。スポーツ参加人口が年々増え、反面テレビを見る人が減り、見るスポーツからするスポーツに変わると、国民の大半が唯一の娯楽としてプロ野球やプロレスを見た時代と空気は異なります。趣味の同調圧力から開放されると自分が参加するスポーツ以外は、国家的行事にも冷淡になるのかもしれません。それでもスポーツが最強のコンテンツであることは変わらず、人間の可能性追求のドラマは魅力的でしょう。本番に弱いと言われ続けた日本人ですが、気負うことなく最高のパフォーマンスを発揮する平成生まれのアスリートを見ると自分も挑戦をしたくなります。何かに挑戦するなら、速さや強さではなく無補給でどこまで移動できるかでしょう。遠い祖先が狩猟をしていた頃、おそらく空腹で数十kmを移動していたはずで、その超省エネボディーを受け継ぎながら現代人はその恩恵を無視してきました。糖質ワールドから離脱することで、無限と思えるエネルギーを生み出せる人体の可能性に魅せられます。

糖質幻想の嘘

最悪期には80kgに到達した体重は山に登る機会が増えたこの1、2年で50kg台に落ち着きました。山岳路の周回時間をGPSで計測するFKT: Fastest Known Timeのマネごとをしますが、記録は50歳を過ぎて運動を始めた頃から年々早くなり、人のいないトレイルを駆け下りるときのスピードや持久力は運動習慣のあった学生時代と同等かむしろ身軽な印象です。糖質制限により体重とお腹の脂肪は劇的に落ちますが、同様に重要なのは空腹の感じ方だと思います。空腹には胃腸系と頭脳系の2つがあり、糖質を欲するのは後者でこれはセンサーの一種の誤作動だと思います。人体はエネルギーを自給自足する高度なメカニズムを持ち、グリコーゲンが枯渇しても糖新生やケトン体系回路で補給なしにエネルギーを生み出します。しかし、エネルギーを最も消費する脳は低血糖を過度に警戒して空腹の司令を出し、多くの人は頭を使うときも運動をするときも糖質神話から逃れることができません。今回3泊4日の縦走で24時間断食をしながら一日活動をしても何ら問題は起きず、他ならぬ自分自身が糖質幻想の嘘に確信を持ちました。

幸福抵抗性

北アルプス縦走では基本的に自炊、テント泊ですが、一食だけは贅沢?をして山小屋で食事を食べました。下界ではお目にかかれないほど質素な食事ですが山上にあっては全てがごちそうで、人の満足度など相対的なものに過ぎません。下界では当たり前の生活の全てが山では有り難く、何を食べても美味しく感動領域です。飽食時代の最大の問題は、当然のように感謝もなく食べ、永久に飽き足らずモアアンドモアを追求する姿勢にあると思います。都市と山上という置かれるコンテクストによって商品の価値や値段が異なることは当然ですが、消費の拡大こそが至上の価値と信じ込ませるパラダイムは人類史上最大の詐欺でしょう。堕落を善と錯覚させる消費社会は幸福感を麻痺させ、ヘドニック・トレッドミルから人は降りられなくなります。レプチン抵抗性が過食や肥満につながるように、欲しいという執着がある限り人は幸福を感じることのないパラドックスに気づきません。山の素晴らしさは絶景ばかりではなく、平凡な日常に感謝する気持ちを取り戻し生活習慣を見直すことでしょう。

質素ながら贅沢

良い旅がそうであるように、数日山にいると人生について考えます。見渡すばかりの稜線、山頂での夕暮れのひととき、早朝の神秘的な空の美しさなど、山の楽しみは数あれど最高の楽しみは下山後の温泉かもしれません。普段の生活との落差を楽しむのがレジャーなら山旅はその最右翼でしょう。人生に必要なものは常に自然とともにあり、文化的な進歩は自然の摂理から離れて行きます。テント泊は1泊1,000円が相場で、多少の体力があればこれほどスペクタクルな体験ができ、下山後に入る温泉の料金も銭湯とそう変わらず、新宿直行バスの料金も日常の経済範囲を大きく越えるものではありません。何事にもお金は必要ですが、他方で人生を満たしてくれるお金は世間が考えるほど大げさなものではありません。山に行くととにかく元気になります。美味しい空気を吸い込み、運動による脳の血流上昇のためか何事にも前向きになります。普段の生活を離れて山上で生活をすることは、質素ながらとてつもなく贅沢な時間を手に入れ、人生の真に必要なものに気づくことだと思います。

旅は人間の可能性追求

雪渓と花畑が印象的な北アルプスから昨夜戻りました。天候が安定する梅雨明け10日は山が最も輝き、旅をするには最高の季節です。山に行く一つの目的は、日本海から日本アルプスを越えて太平洋に至る415kmの山岳レースTJARのコースをたどることですが、今回のルートはその前半のハイライトとも呼べる山域です。レースを来月に控え出場選手数名にもお会いし、一般ハイカーの数倍の距離を涼しげにこなすその超人的な体力と精神力を垣間見ることができました。旅が多くの人により奨励されるのは、それが人生の縮図だからだと思います。人間の限界を超えた冒険が世間の耳目を集めるのは、そこに人間の可能性追求の姿勢があるからだと思います。運動中のエネルギー補給は従来糖質を中心に考えられましたが、数年前に、活動中は補給をしない方がエネルギー切れを起こさないことに気づきました。2、30km程度のトレイルランニングではその有効性を確認していましたが、今回は24時間断食の無補給で12、3kgの荷物を背負い山で行動できる人体の可能性を確認できました。人生の本質が人間の可能性の追求であるなら、旅はその縮図であるべきでしょう。

今この瞬間こそが本質

日の出時間は日々遅くなり始めていますが、それでも4時前に薄明かりのなか青空を見ることができます。何層もの雲に紅をさす光景はアスファルトで埋め尽くされた都会で自然を感じる数少ない機会です。日の出前の神社の森に行き、蝉が鳴き始めるのを聞くと遠い夏の日が蘇ります。それは小学校時代の夏休みであったり、伊豆や日光など特定の場所であったりしますが、いつもどこか切ない感情を伴います。蝉の地上での命がはかないように、夏が激しく過ぎ行く季節だからでしょう。はかなさを感じるもうひとつの理由は、華やかな人生の頂点を夏と重ね合わせるからだと思います。本質と違う生き方は虚しさやはかなさを伴います。人は何も持たずに世を去るように持ち物の多寡を競う野望や刹那的快楽を味わい尽くす執念が本質でないことは明らかです。同様に戻ることのできない過去を後悔し、これから作り出せる未来に不安を覚えることも本質から離れた考えでしょう。今この瞬間こそが唯一自分の帰るべき場所というシンプルな事実に気づくだけで人生は楽になります。

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