普段は一日二食ですがおなかが空かない日は一食にしてそれでも食欲がなければさらに抜き昨日は丸2日食事を抜きました。食べないと元気が出ないと言われそれを信じてきましたがこの常識が見落としているのは、食べることが体に負担をかける自傷行為であることです。少食や断食を続けると体は食べない状況に慣れます。全く食べずに生活する人もごく少数存在しますが、3、400kcalで生活するライトイーターと呼ばれる人は世界で数十万人とされ、嗜好品として少量を食べると言います。一日50kcalで何十年も元気に生活する人の腸内細菌叢は牛に近いとの研究があり、体の中の細胞は私たちの思考や信念、行為に応じて構造を調整していると考えられます。一般には受け入れ難い仮説ですが、糖質がほぼ枯渇した状態で山に入り何十kmも補給なしに行動できることや、体重は減っても筋肉が落ちることなく健康のバロメーターとされる皮膚の状態が良好なことなど自身に起きた変化を考えるとこの仮説は正しいはずです。食べる自由と食べない自由を得て、食べる喜びを放棄せず一方で無限に近いエネルギーを手に入れるライトイーターという生き方こそ人類の夢でしょう。
年: 2021年
虚構のジャパニーズ・クオリティ
一昨日娘が留学先の英国から帰国した際、6泊7日の隔離先のホテルまでは飛行機の到着から5時間以上かかったそうでその手際の悪さは前評判通りです。お年寄りや小さな子供にとって長旅の末にウィルス暴露のリスクが高い環境で長時間並ばせる行為は免疫力低下により感染を増大させる危険な行為です。同じ時期にマレーシアに渡航した娘の同級生は空港到着から検査を済ませて隔離先のクアラルンプール市内のホテルまで移動して2時間だったのとは大違いで、この体たらくで海外から人を迎えてオリンピックを開くつもりだったのかと心配になります。おもてなしなどと自画自賛をする前に、ストレスのない移動ができるインフラを構築すべきだと思います。日本人はトヨタ自動車など一部のメーカーの頑張りを世界から称賛され、自分たちまで一流になったと勘違いをしますが誤解です。少しだけ相手の気持ちになれば分かることなのに、悲惨な状況を放置する人達がジャパニーズ・クオリティにただ乗りすることはこの国の恥でしょう。娘曰く久しぶりの日本の食事だった夕食の弁当が美味しかったことは救いです。
造園業界はブルーオーシャン?
都会に住むことのストレス原因の一つは騒音です。先日は向かいのマンションの玄関脇の植木をエンジンの付いたトリマーで刈っていて、10メートルに満たない植栽を単に長方形に揃えるだけの作業に丸一日騒音を出し続けます。お互い様なので構わないのですが、問題は一日で終わらず翌日も朝からエンジン音が鳴り響くに至りその生産性の低さにはあきれました。自分の見積では30分もかからない作業量で、高所作業でもなく、誰も気に留めない平凡な植木ですから芸術性が要求されることもありません。植木屋を入れると高いという話はよく聞きますが、遠目に見ると素人っぽい中年男性で、それほど重い機械でもないのに2、30秒で止める、最後にまとめて掃除をすればいいのに都度掃除をする、無駄に同じ所を刈る、作業スピードが遅い、すぐに休憩するなどいくらでも改善点は見つかります。庭が減るなかでこの業界も厳しいと思うのですが、この作業単価をベースに見積を出せるならいくらでも参入余地がありそうです。そもそも何の効果もない植栽に無駄にお金を払うマンションに問題があるのですが、経済は無駄で成り立っているのでしょう。
無宗教の宗教
22時頃には寝るようになった今の感覚だと2時以降は朝なので、目覚めた時間に起き出し日の出前にラブラドールと神社に行きます。毎朝神社に行くのは信心深いからではなくそこだけが都会のなかに現れた森だからです。父方の親戚は今でも浄土真宗のお寺を継いでいますが自身は無宗教です。しかし信仰心がないわけではなく、信仰の対象が既存の宗教に向かないだけで、日本古来から続く自然信仰と結んだ山岳信仰には関心があります。多くの人が現代の修験道とも言うべきトレイルランニングに熱狂するのは、600年代後半に生まれたとされる修験道が民衆の自律的共同体の上に形成され、堅苦しさが少ないからだと思います。教団を形成せず経典も教祖もない民衆信仰の立場を守ったために人々に慕われ、人口3、4千万人の明治初期に17万もの修験者がいたとされます。修験道が古くから弾圧され、明治に入り修験道廃止令が出されたのは民衆迎合的なゆるいネットワークが中央集権国家にとっての脅威だからだと思います。もちろんトレイルランニングをする大半の人は修験道とは考えていないはずですがそのストイシズムには信仰を感じます。
雨は充実した人生の証
雨が降る日は甲子高原で暮らした頃を思い出します。旅館のなかで一番眺めが良い場所にある温泉浴場から新緑に降り注ぐ雨を眺めるのが好きで、旅館を買う前に何度か訪れたときはいつも快晴だったために、源流地域は降雨量が多いことを意味することに住んでみて気づきました。もちろん楽しい思い出ばかりではなくそれなりの苦労もあったのですが、辛いこともなぜか美化されて時が過ぎると良い思い出に変わります。心労から5日間何も食べられないこともありましたが、それも含めて刺激的な日々は生きていることを実感させてくれます。嗅覚は人の記憶とダイレクトにつながっていると言われますが、同様に雨音を聞くとあの頃の思い出と直接結びつきます。福島では傘を差した記憶があまりなく、景色を色鮮やかに洗い直す雨には濡れる楽しさがあると思います。世界一貧しい大統領のホセ・ムヒカは長年投獄された刑務所を出て雨の中を散歩したとき、しずくが顔を伝わり口に入り舌に触れた瞬間に生きていることの幸せを感じたと述懐します。現代人は感受性を失っただけで、充実した人生の証はそこかしこにあるのでしょう。
スパイスは悪魔の誘惑
先日、妻が朝から昼食用のカレーを作っていて、普段は朝食を抜いても感じない食欲がそのときは湧き上がり、悪魔の誘惑は鍋を遠ざけるまで続きます。昔世界史の授業で香辛料を巡り人が殺し合うと聞いたとき、なぜそれほどまでにスパイスに執着するのか不思議でしたが、それは人を操る道具だからでしょう。アルコールや糖質も同様に労働者を働かせるためのインセンティブとして古来より用いられてきたとされます。厳しい自然環境を数百万年も生き延びた人類は元来ほとんど食べずに生きられるように進化してきました。現代の商業主義は、トロイの木馬と化した脳によって人を操り、物質主義、計画的陳腐化、中毒の三点セットにより自分が生きる世界は内面ではなく外界にあると信じ込ませます。物質主義者はひたすら多くを消費し生き延びることしか考えなくなり、創造性とは無縁の怠惰な人生を送ります。人が自然に強く引かれるのは、自然界に存在するものはどれも完璧なプロポーションを保つからですが、人工的なものに熱中するように脳を躾けてきたのでしょう。
自然と飢餓と運動
週末、東京を離れて過ごすとリトリートの必要性を強く感じます。リトリートは軍事用語の「後退・退却」から派生した言葉で世界の宗教コミュニティにとって不可欠な集会、洞察力を深める修養や場所を示し、ホテル業界においてはハイダウェイと同様に小規模でエクスクルーシブなリゾート業態を指します。個人や企業においては半日から数日に及ぶワークショップやセルフケア、マインドフルネスを意味し、最もよく知られるのはビル・ゲイツの「Think Week」でしょう。太平洋岸北西部の静かな森のウォーターフロントにあるコテージで、1日2回運ばれる食事以外の外部との接触を完全に遮断して重要なテーマを深く思考するとされます。自分にとってのリトリートは自然、断食、運動の三点セットが必要で気晴らしや健康増進も然ることながら、何より生きていることを実感できます。リトリートとリゾートの意味するところはおそらく同じで、本来の自分に並べ替えると解釈できます。煩わしい日常から解放され、人類が長年親しんだ環境で、祖先が常にそうであった飢餓状態に身をおいてこそ、体は自ずと最高のパフォーマンスを発揮すると思います。
日々の食事が美味しくなる
週末は2日とも八ヶ岳南端の西岳、編笠山に登りました。通年登れる西岳は長野にいるときによく登る山で、昨年は40回ほど登りました。登山者の少ない早朝なら動物と遭遇することが多く昨日も鹿の群れが登山道を横切ります。山に行くときに非常食は持ちますがいつも食事を摂らずに登り、空腹と有酸素運動の組み合わせはミトコンドリアが活性化される最強の健康法だと思います。食事の回数を減らして起こった変化は「美味しい」と言う回数が増えたことです。別段妻の料理の腕が上がったわけではなく、これまでは感謝もなく食べていたからだと思います。グルメ番組などでタレントが大げさに驚くときの常套句はたいてい、「ぷりぷり」とか「柔らかい」という美味しさとは別の表現です。高い店なら条件反射で美味しいを連発しますが、食べ物は感謝をして食べればどれも美味しく感じます。出汁をとり生姜を添えるなどひと手間かけ、塩などの基本的な調味料のコストを惜しまなければ、美味しさの起源を分析的に見極めるまでもなく日々の食事が美味しくなり幸せになれると思います。
酸欠の金魚
昨日は4ヶ月ぶりに八ヶ岳に登りました。朝の清涼な空気を吸いながら高度を上げていくことに勝る喜びはありません。山に来ると全身が喜ぶのが分かり、同時に都会の空気の汚れを感じます。断食をすると食事を摂ることの体への負担が分かるのと同じです。普段から散歩中に何かを思いつくことが多いのですが、山に来るとその頻度が上がるのは自然のゆらぎと脳がシンクロすることによりインスピレーションを受け取りやすくなるからだと思います。自分は人生でこんなことがしたかったのだ、と直感的に本音が分かる瞬間が時々ありますが、それは決まって自然のなかに身を置くときで、静寂こそが自分自身と世界のありように気づくきっかけになります。自然に帰りたい本能から人は週末の行楽地へ出かけて酸欠の金魚のようにきれいな空気を吸おうとしますが、自然の元で深呼吸をすることの素晴らしさを忘れさせるために、収奪装置としての都市は金と娯楽の力で人を引き留めます。人体は本来野性の環境で能力を発揮するように設計され、自然と共に暮らす恩恵を忘れた現代人はそのわずかな才能しか使わず生きていると思います。
どこか行きたい?
以前なら休暇の予定を立てる時期ですが、世間には「欲しがりません勝つまでは」の雰囲気が広がります。お金を使いたい人はいくらでもいてすぐに需要は回復するという楽観論と、消費者の意識と世界は元には戻らないという悲観論がありどちらにも一理ありそうです。行きたい場所を考えるとバリ島のウブドあたりで夕刻の熱帯特有の風情のなかでガムランや蛙の声を聞きたいとか、アメリカの国立公園で大草原を移動する動物を眺めながら山に沈む夕日を見たいとかありましたが、少し心境が変わり外からのアトラクティブな刺激よりも、山のなかで一人自分と向き合える場所で時間を過ごしたいと思います。誘惑にかられる人生は何かに依存する人生であり、自分の欲求においても人間関係においても依存は見返りを要求します。自分の判断だと思っていた脳内システムは気づかぬうちに外から操られ、言われるままに財布を開くようになります。外部の刺激はいつも魅力的な表情を見せますが、一方で日々の何気ない瞬間に満たされる権利を放棄していると思います。毎日が嬉しくて仕方がないような充足した日々は消費では実現できないのでしょう。